費用対効果が段々頭打ちになることをなんというのだっけ、と思って調べたら「収穫逓減(Diminishing returns)」というらしい。
投入仕事量などに対する効果や生産量が、一定の入力を越えるとあまり上がらなくなる、入力の割に出力が上がらなくなってくる、という現象のことだ。沢山入力すれば出力が上がるには上がるけれど、コスパが悪くなってくる、ということだ。
この法則が普遍的というわけではないけれど、かなり多くの事象に見いだせる傾向ではないかと思う。
なぜそんなことを持ちだしたかというと、例えば健康。健康的な食事で禁酒禁煙、定期的にほどほどの運動、などを心がけていれば、暴飲暴食で自堕落な生活をしているよりは健康になるだろうし、余命も伸びるのではないかと思う。ただ、永遠に生きるわけではないし、どの道人はそのうち病気になって苦しんで死ぬ。その前にドブに落ちて死ぬかもしれない。すごく不健康な人がちょっと健康的生活を心がける分には効果バツグンだろうけれど、その道を極めようとしてもコスパはどんどん悪くなって、最終的には五十歩百歩になる。ある意味、当たり前のことだ。
ところが、人間の脳みそというのはそういう風にできていないようで、あることを極めようとしてレベルが上がってくると、そのレベルではじめて見えてくることというのがあるので、更にディテールが気になって、どんどん極めようとしてしまう。頑張っている割には伸びない。クソ健康にしているのにたまに風邪をひく。あげくの果てに死ぬ。
こういう極める楽しみというのはあるので、それを当人がエンジョイしている分には良いのだけれど、それが分からなくなると地獄を見ることになる。既に一般から見れば十分高いレベルにいるのに、頑張っても頑張っても報われないような気がしてくる。更にこじらせると、周りの「怠けている」人らが憎くなってくる。「自分がこんなに頑張ってるのに、何をグダグダしてるんだ!」的に黒い想念が渦巻くようになる。
仕事なんかも、ただ単にゼニカネが目的というのではなく、コツコツこなして生産性をあげる悦びというのはあると思う。しかしそれが一定レベルを越えると、頑張ってる割には報われない。すごく「やらされ」感が出てくる。働いていないヤツが憎くなる。
元はといえば遊びでやっていたことが、極めようとしたところでエンジョイ感がなくなり、ただの苦行になってくる。成功しているヤツが憎い、周りがバカに見える。
そういうことがよくある。
昔の人は偉かったので、「何事もほどほどに」とか「中庸の徳」とか言ったのだけれど、それがなかなかできない。いや、昔の人も、大概は中庸にできないからこういう警句を発したのだろうから、やっぱり昔からアホだったのかもしれない。
これは本当に忘れそうになる大事なことなので、よくよく思い出さないといけない。
極めるのはいい。そういうクレイジーな人たちとクレイジーな行いのお陰で、人類の暮らしが結構良くなったところは色々ある。
でもあるレベルを越えたら、一回一息ついて、本当に自分がそれをやりたいのか、クレイジーを突っ走りたいのか、よくよく確かめた方がいい。別にそんなもの極めなくても、人は生きていていいのだ。人類の99%以上は、特にこれといって物事極めることなく鼻くそほじったりしているうちに年をとって死ぬのだから、それがデフォルトなのだ。そういう風に神様が作られたのだから、基本、それで問題ない。だから、頑張ったり極めたりするのは、あくまで道楽、欲のものだと肚をくくらないといけない。
それでもいい、自分は健康道と心中する、というなら、それはそれで立派な生き様だと思う。個人的には、そういうクルクルパーな人は結構好きだ。あんまり近寄らずに、百メートルくらいのところから望遠鏡で見たりするのが一番おもしろいけれど。
道楽で心中する覚悟がないなら、程々でやめた方がいい。やめないでもいいけど、「もうこの先は伸びないから維持レベルで程々に」と気持ちを切り替えた方がいい。そうでないと、当人が地獄を見るだけでなく、周りが迷惑する。そこで迷惑かけていいのは、迷惑かける覚悟のある人間だけだ。「アッパレなキチガイよ、早よ死ね!」と言われて納得できないなら、目立たないように細々生きた方がいい。そっちのほうが真っ当な生き方なのだ。
伸び悩むようになってもがき苦しみ、黒い想念にとらわれるようになると、それを緩和するために頭の中から変な汁が出てくる。この汁のお陰で「自分が伸びないのはCIAの陰謀だ!」とかいうお話が出てきたり、「頑張ってない他の愚民は地獄に落ちる! 世界の終わりを乗り越えるために汚い小屋にこもって警官隊と銃撃戦する!」とかいう展開になる。そういうのは皆んな、頑張ってない世の中となんとか折り合いをつけるための工夫なのだけれど、そこで工夫するくらいなら頑張るのをやめるのも一手だ。一手というか、それが普通だ。汁が出る前にそっちを選んだ方が大体の場合は正解だ。
極めても極めても、「向こう側」には手が届かないのだ。
「向こう側」はカント的なリアルで、それは永遠の漸近線の向こうに仄見えるものでしかない。
健康法もビジネス書的なポルノ世界も、現実らしさというファンタジーを形成するものだ。それはどうでもいい何か、特に意味もない何かが、抹消された主体と結びついて投影されたもので、実のところ現実そのものには少しも近づいていない。それはずっと、ずっとずっと向こうにあるもので、特に近づかなくてもいいものなのだ。多分、本当にそこに落ちる時というのは放っておいても来る。わたしたちはそこから来て、そこに帰る。そういうものなのだから、帰るまではゆっくりしていったらいい。
わたしたちの食べているものは、大概が食べ過ぎれば毒になるもので、特に糖質とか塩なんて、ドラッグみたいなものだと思う。これをやり過ぎればそれは毒だろうけれど、わたしたちはちょっと毒を食べ、ちょっと中毒になって、それで生を蕩尽していくのだ。それが人生であり、普通の生き方というものなのだ。
普通はイヤ、道を極めて解脱したい!というなら、それはそれで良いのだけれど、あくまで欲のもの、道楽なのだとよくよく肝に命じないといけない。
そうでないと、行く先は地獄、汁に溺れて一族郎党酷い目にあう。
何事もほどほどが一番で、好きで絵を描いてるならそれを楽しめばいいし、漫画家になれなくても人間合格だし、めんどくさくなったらやめたらいい。絵を描くことは楽しいだろうけれど、楽しいことのすべてではない。
あるレベルまで頑張ってしまうと、汁のせいだか何だかで、「自分の人生はコレ一本」みたいな幻想が生まれてくる。そういうのは別段、立派なことでも何でもない。そんなものは、自分の人生に意味をつけたい、コレ一つということでストーリーを完結させたい、という、ヘタレな心が生み出した逃げ口上だ。
ストーリーがどう転ぶか、どういう意味があるのかないのか、そんなものは神様の領分だ。いつ終わるのかもこっちが決めることじゃない。
第二の人生、第三の人生も恥ずかしいことではない、というかそっちの方が余程真っ当だ。
いつでも、好きな時に退却せよ!
そんで、また料理教室にでも通ったらいい!