リンクではなく画面キャプチャでシェアすること

 最近の若い人たちが、リンクではなく画面キャプチャで情報をシェアしようとする、という話を目にした。

若年世代の情報シェアはリンクではなくキャプチャで行われる? | スラド IT

 これは非常に面白い!
 このリンク先でも、色々な理由が推測されて議論されている。
 キャプチャで共有するのがスマホ操作上実は簡単だから、会員制ページなどURL共有で見られないものがあるから、ニュースサイトなどだとリンク切れになることもあり、そもそもリンクが禁止されていたりする、環境による差異、等々。
 もちろん、実際にキャプチャで共有している人たちにも色々いるだろうし、大方はそれほど深く考えずに慣習的にキャプチャを使っているのだろう。
 それでもやはり、URLが本来の同一性を(仕様で期待されたほどには)保てていない、ということがまずあるように思う。ニュースサイトのリンク切れはもちろん、一つのURLの中で何を特に指示したいのかは時に不明瞭だし、そもそも同一URLだとしても内容などいくらでも書き換えられる(だから魚拓のようなサービスがある)。

 でもそれよりも個人的に気になるのは、こうした共有行為が、あくまで体験の共有だ、ということだ。
 同一URLでも内容や「見え」が異なる可能性があるのは言わずもがなだけれど、それ以前に彼らが共有したいのは、そこにある「情報」そのものというより、「情報を見たよ」という体験なんじゃないか、ということだ。
 ある観光地を訪れたとして、その体験を共有しようとする時、普通わたしたちは写真なりを撮って、それをシェアしようとする。観光地の住所を送る人はいない。もちろん、(かなりの面倒を厭わなければ)住所を元に別の人がそこを訪れることは出来るのだけれど、そこで得られるのはその人のまた別の体験であり、最初の体験そのものではない。共有したい体験とは、「わたしがその時その場所で」得られたものであり、対象そのものが不動だとしても、二回はないものだ。
 もちろん、実際の観光地を訪れるのと、リンクをクリックするのは違う。「対象」を訪れるための手間・コストが比較にならない。ネット上でリンク先を訪問するのにかかるコストは極小であり、そのためにわたしたちは、対象の情報そのものと、その情報に出会う体験、この二つが一つであるかのように勘違いしてしまう。しかし厳密に言えば、両者は別のものだ。
 もう一つ言えば、「情報」は基本的に死んだもので、不変のものだ。ネットは情報の堆積。それゆえURLの指し示す対象も不動。だから同じ対象に何度訪れようと、体験に差異はほとんどないはずで、対象と体験を同一視しても問題ない。そうした理念的な前提がある。しかしもちろん、実際にはリンク先は不動ではないし、ネットが「死んだ」情報の堆積であったとしても、次から次に新しい死体が放り込まれる。依然、その差異が微々たるものだとしても、体験は常に情報の先を走っている。

 何かこれは、視覚的・リスト的・無時間的なものの見方と、聴覚的・エピソード的・時間的な見方の相剋のようにも見える。円環的・快感原則的・ホメオスタシス的・個的なものと、直線的・死の欲動的・種的なもの、とでもいうか。あるいはまた、書き言葉的なものと、話し言葉的なものの対立か。
 別の場所で、識字能力の獲得とリスト的・カテゴリー的思考能力が相関している、という報告について書いた。
 リスト的・カテゴリー的能力があらわれるのは、たとえば「仲間はずれクイズ」のような場面だ。ノコギリ、ナイフ、カンナ、材木、という4つがあり、「仲間はずれはどれ?」と尋ねられたら、材木だけが道具ではない、ということがわたしたちにはすぐに分かる。しかし必ずしもこれは自明ではなく、実際、生まれながらにして当たり前に持っているわけではないからこそ、幼児向けにこうした教育がある。識字能力を持たない人々は、こうしたリスト的・カテゴリー的思考を苦手とする傾向があり、エピソード的連関でものを考えやすいという。例えば、材木とノコギリは何か関係がありそうで、結びつけて考えてしまう。
 わたしたちの(近代的)知性は、基本的にリスト的・カテゴリー的な能力を軸に養成されるようにできている。だから、材木とノコギリが仲間だ、というような発想は単に「アホ」のように見えてしまうのだけれど、この見方には見方で一理はある。彼らは物事を抽象化・象徴化して考えようとせず、具象的・イメージ的な連想で理解しようとする。人類はそのほとんどの歴史において、大多数の人間が識字能力など持たず、現在でも多くの地域でそれほど高い識字率がある訳ではない。この圧倒的大多数の人間が単に「アホ」ということはないだろう。こうした思考様式が長い長い間保たれてきているのは、それなりの理合があるからだ。抽象化されたカテゴリー的思考が有益であるのは言うまでもないことだけれど、これらは人間の持つ二つの方向の能力だと考えた方が良いだろう。
 インターネットを作り上げてきた人々、その裏方で働く広義のエンジニア的人々というのは、概ね、識字能力者の中でもとりわけ抽象化能力の秀でた人々だ。だからこそこれだけのものを作り上げることができた。しかしその利用がこれだけ一般に広まった今、こうした人々には思いもよらなかった、人類の貴重低音的な、プリミティヴな感性が逆流入してきているようにも見える。
 もちろん、現代のネット利用者が識字能力を持っていない、などという意味ではない。彼らのほとんどは間違いなく十分な程度の識字能力を持っている。ただ、人類の基本である非識字的・聴覚的・時間的な性質をより多くもった人々、そうしたタイプが多く利用するようになっている、ということだ。
 これらの人々は、情報の不動性、その「死んだ」性質に対する信が比較的薄い。そのように無時間的に展開されたものより、時と共に流れ去る体験を重視する(というように整理すること自体、無時間的カテゴリー的な考え方なので、彼ら自身は特にそう考えないだろうが)。
 わたしたちの抽象化能力は、状況を象徴化し時の外に出し、メモリ上に展開するかのように空間的に比較して考えることができる。これは素晴らしい能力だ。しかしコンピュータの計算にも時間はかかるように、わたしたちは決して「本当に」時の外に出たわけではない。抽象化された思考を包囲して、常に時は一方向に流れ、体験は二度と帰ってこない。聴覚的・時間的な感性は、この身も蓋もない力強さと地続きになっている。
 そして生まれた時からIT技術と身近であった人々、いわゆるデジタルネイティヴの世代にとっては、ネット上での体験もまた現実世界での体験と同じく、二度と戻ることのない時の流れの中にあるように感じられているのではないか。だとしたら、観光地で記念写真を撮るかのように、住所の代わりに記念撮影して帰ってきたとしても、それほど不思議なことではない。

 と、えらく大げさな話になってしまったけれど、実際上、わたしはそんな若者世代ではないし、特段の確証もない。当然ながら、彼ら一人一人はこんなごちゃごちゃしたことを考えているわけではないだろう。
 しかし文字を当たり前だと感じた人々が前の世代とは違う世界を獲得したように、ネットが当たり前の人々がまた違う感覚でこの世界を眺めているのは、何かわくわくさせられる体験ではある。いずれ草葉の陰からでもその流れを眺めていたいと思う。