Googleトラック野郎と掃除と引っ越し

 トラックの中で暮らしているGoogle社員の記事があった。
 トラックの中で生活し「給料の90%」を貯金する、23歳のGoogle社員 | TABI LABO

「今まで、家賃にどれほどのお金を使っていたか気づいてもいなかったんだ。ほとんど家にいないのにだよ?それよりも、もっと将来のためにお金を貯めるべきだと思ったんだ。最初は決心するまでなかなか大変だったけど、結果今の生活があるんだ」

 確かに家にほとんどいない人が住居費に大きなお金を出しているのは、ちょっとバカバカしい感じもする。
 もちろん実際上は、家族がいたり持ち物があったりで、そうそう住所不定というわけには行かないだろうけれど、そもそも家ってなんだったんだ、と考えると、色々おもしろい。

 人類はその歴史のほとんどを「住所不定」で過ごしている。テキトーにウロウロして拾い食いしているのが基本だったのだ。
 「定住革命」以降、基本的に一つの場所にとどまる、という様式を獲得したのだけれど、それは何よりも農業のためだ。だから少なくとも定住以降の農耕文化圏においては、「大体家にいる」ものだったのだろうし、家にコストをかけるのはまことに理にかなっていたかと思う。
 でも、それはあくまで人類の歴史の中ではつい最近のお話だし、今でも農業が成り立たないような厳しい気候風土の人々は、それほどは定住志向が強くない。
 定住志向の程度というのは、わたしたちと事物のつながりの捉え方、象徴化の仕方というものと密接に結びついている。
 日本は基本的に「農業国」だったので、土地と人々の結びつきが非常に強い。田畑を捨てることは農民にとって命を断つも同然だったはずだ。そういう土地では、個人を同定するのにも「○○村の太郎さん」のような考え方をする。人名と地名の関連も強い。
 対して、遊牧系の出自を持つ人々は、土地にこだわっても仕方がないので、個人の同定に血族や氏族関係を使ったりする。「○○の子、○○の子、○○の子、誰それ」みたいな発想だ。基本にあるのは血縁ベースなのだろうけれど、氏族概念は一段抽象化されていて、厳密な血縁関係がなくてもネットワークに組み込まれたりする。就職のちょっと重いヤツみたいだ。いずれにせよ、人と人とのつながりやグループの関係を辿ることで人を同定する。

 定住することで人類は色んなものを手に入れたと思うけれど、何せほとんどの時代を拾い食いで過ごしてきたのだから、定住にはまだ慣れていない。色々と不都合がある。
 古代文明がトイレ問題やゴミの捨て場所で滅んだ、といった話を聞くことがあるけれど、一つの場所に住んでいると、ゴミがたまる。ゴミをきちんと処理する、みたいな話は、わたしたちの遺伝子やミームにおいて、それほど深く刷り込まれているものではない。「ポイ捨て禁止」みたいなことが言われるのは、放っておけば人はポイ捨てするものだからだ。
 赤ちゃんは、歩きまわって言葉を喋るようになっても、まだトイレを覚えられなかったりする。排泄を一箇所で済ませて管理する、というのも、かなり頑張って習得することなのだ。ボケてきたお年寄りも、また下の管理がうまくできなくなったりする。トイレの管理は人類にとってかなり敷居が高い。
 犬や猫にトイレの場所を教えるのが簡単なのは、元々彼らがそういう習性を持っているからだ。対して、チンパンジーなどは、芸をするような飼いならされた賢いものでもオシメを外せない。トイレの管理をする、という習性がないからだ。鳥もまたしかりで、どんなに教えてもトイレを覚えたりはできない。そういう意味では、人間もチンパンジーや鳥に近い方のグループに入るはずだ。「トイレ苦手組」だ。
 だから、広い意味での「掃除」こそが、定住の鍵になる。一箇所にとどまってテキトーに過ごしていると、どんどんゴミと糞尿に埋もれてにっちもさっちも行かなくなる。そしてゴミや糞尿の管理について、人類は「苦手組」なので、教育を通じてかなり頑張って仕込まないとできるようにならない。大人になっても苦手な人は沢山いる。

 昔の人たちが大掛かりな遷都などをした理由の一つは、町がゴミと糞尿でどうしようもなくなったからじゃないかと思う。
 つまり、定住における「掃除」は、「引っ越し」とパラレルな関係にある。
 大掛かりな掃除をしたりしていると、「なんだか引っ越しみたいだなぁ」と思うことがあるけれど、実際、掃除と引っ越しは似ている。かつて引っ越し(移動)で処理していた問題を、今は掃除でカバーしているのだ。
 拾い食い生活の時は移動が命で、移動できなくなったらすなわち死、だったのだろうけれど、定住民の文脈に置き換えると、掃除こそが命であり、掃除ができなくなるともうヤバイ、ということになると思う。掃除は定住文明の命脈だ。
 もともと拾い食いしていたので、土地の所有権という概念もかなり最近になってから獲得したものだろうけれど、土地が誰のものになるかというと、その土地を掃除している人のものだ。管理している、「ちゃんとしている」ということだけれど、管理の基本は掃除。誰かが土地を「掃除」しはじめて、ただの荒野から象徴界の網の目にとらえられる何者かへと変質させた時に、その場所に「所有」が発生する。そういうものが最初にあったはずだ。
 今でも、家の前の道路を掃除する人は沢山いるし、その土地は法的にはその人のものではないはずだけれど、なんとなく「所有」感みたいなものがある。「一応あの人にことわらないとアカンのちゃうやろか」くらいのぼんやりとした結びつき感だ。「掃除」が土地と人を結びつける。
 「掃除」をもう一段抽象化すると「世話」になるのだろう。土地の世話、植木の世話、山の世話、家畜の世話。遊牧民だって家畜は世話するし、世話している人に「所有っぽい何か」が生まれるだろう。世話が諸物を人間の象徴経済の中に組み入れる。

 エライ話がズレてしまったけれど、要するに人類は基本的に拾い食いで、定住にはまだ慣れてない。そして定住の最大の目的は農耕だったはずなので、農耕を離れた人々がまたブラブラ住所不定になっても、そんなにびっくりすることじゃない。
 もちろん、現代日本のような社会でいきなり住所不定で暮らし始めるのは果てしなく困難がつきまとうだろうけれど、大局的に見ると土地の縛りが薄れていってもおかしくない。日本については、農耕の歴史がそれなりに深く人類学的に刻まれているので、住所不定の敷居が高いけれど、世の中には本当にホイホイと土地を捨てる人々が沢山いる。以前、タイ人が結構簡単に引っ越しする、という話を聞いたことがある(タイだって割と農耕系じゃないかと思うけれど)。アラブ系の人とか、ほんとに気軽に移動するし、遊牧文明がルーツにある人たちは引っ越しに対する敷居が全般にかなり低いような印象を受ける。その代わり、人とのつながりを非常に重視する。ソマリ人などは、世界中に離散しているけれど、どの土地に行ってもソマリ人コミュニティというのがあり、その人間関係の中で暮らしているそうだ。
 郷に入らば郷に従え、と言うけれど、世の中には郷にとらわれずにホイホイ移動するけれど、どの郷に行っても従わず、いつでもどこでも自分たちのやり方で通す人たちがいる。「郷に入らば郷に従え」というのは、一見すると相手を尊重する相対主義的な見方のようだけれど、この発想自体が農耕系の郷志向が強い人達のものだ。
 日産の社員が豊田市に住んだからといって、トヨタに出社したりはしない。そういう感じで、郷ではなく人のつながりが基本、という発想の人たちもいるのだ。
 要するに、今現在でも定住志向があまり強くなく、ネットワーク志向で動く人たちがいるのだから、ちょっと背中を押されれば、結構ホイホイ住所不定生活に移行できてしまう人たちはそれなりにいるのじゃないかと思う。
 Googleのトラック生活の人は、あくまで定住社会での特異な例外として出てきたものだけれど、もう少し社会がブラブラ暮らしにオープンになれば、同じようにブラブラ移動しながら暮らし始めるような人たちがいるだろう。
 別にそういう社会が望ましいとかそんなことが言いたいわけじゃないけれど、人間、拾い食いで糞尿垂れ流しゴミ捨てっぱなしが基本でやってきたのだから、わたしたちが思っているほど敷居は高くないと思う。
 ただ、遊牧文化系出身の人々を眺めていると、文化的には本当に農耕系の人たちとは違う。色々と「話が通じない」。実際、「郷に入らば郷に従え」を基本にしている百姓文化の人たちのところに、郷なんて気にしない人たちがフラフラやってきて揉め事になる、というのは世界中で沢山見られる。
 わたし自身、百姓根性がかなり染み付いた人間なので、そういう揉め事に巻き込まれたら、やっぱり百姓の味方をしてしまう方だ。どっちに転んでも別に理想社会が実現したりするわけじゃないだろうし、百姓は百姓らしく、せいぜい掃除を真面目にやっていこうと思う。
 なんかGoogleと全然違う話しかしなかった。すいません。