顔と「内面」

 「人を外見で判断するな」と言うけれど、そういう警句があるのは、人は大体外見で判断するからで、なぜ外見で判断するかと言えば、結構外見で判断できるからだと思う。
 そもそも、外見の代表とも言える顔は、外面の中では一番内面に近い。
 表情がどうとかいう以前に、解剖学的に見れば、顔というのは穴の端っこで内側と外側がつながるところだ。穴の内側がムリムリッと外に少しめくれて出てきたのが顔とも言える。実際、顔の皮膚はそれ以外の場所の皮膚とは結構性質が違うそうだ。
 少なくとも顔は、一番「内面」に近い外面だ。内蔵が一部めくれて外にむき出しになっているようなものだ。
 それより奥の「内面」は、直接見るわけにもいかないのだから、仕方がない。
 もちろん、表情などによって、一般に言われる意味での「内面」、ココロ的なものも表れやすい。でも、そんなココロ的なところは、人を見る時に一番大事なところではない。よくよく付き合ってやっと出てくるようなもので、うまくすれば大してお付き合いしないでもやっていける。
 大体、ココロ的な「内面」なんて、一皮向けば大概の人がロクでもないものだ。「中身」はどのみちロクでもないのだから、「外身」だけでもパッとしている方がマシというものだ。
 とりあえず顔を見ておけば、内蔵の具合やらといった「内面」なら多少は表れているような気がしないでもないし、顔からチェックするのは割と理にかなっているように思う。

 じゃあ顔が悪くて(多分「内面」も悪い)人間はどうするんだ、というのは、見かけで判断とか何とかいうのとは、全然違う別のお話だ。
 「内面」が悪い人間はどうするんだ、というのが、本当の問題だ。「見かけで判断するな」云々というのは、それこそ見かけの問題で、大して大事でも何でもない。
 「内面」が悪い人間は死ね、とか、二回に一回しか選挙行ったらアカン、と言ったら、それは人権問題というもので、別のコンテクストの問題だ。
 本当のところ、「内面」(内蔵とかココロとか)がクソな人間がどうするんだ、クソな人間とどう向き合うのか、ということが本題なのだ。
 「クソは死ね」でも「クソにも愛を!」でもいいけれど、とにかくそれは見かけの問題じゃない。