「弱いヤツは勝手に死ね」に「お前こそ死ね」とかえすこと

 「弱いヤツは勝手に死ね」という言説を指摘する、こんなTweetがありました。

 まぁ確かにそういう流れ、そういう類の言説というのはあるかと思います。
 で、以下はこの発言の主の意図とはあまり関係なく、わたしの勝手に連想したお話です。
 そう言われてこの画像を眺めてみて、「なんやこのチビのオッサン、ほならウチと相撲でもとって負けたらお前弱いから死ねや!」などと直情的な感想を持ってしまったのですが、落ち着いて考えてみると、「(要するに)弱者は勝手に死ね」という言説を垂れ流している人たちが、自分たちは強者だから大丈夫、と思っているわけでもなかろう、と考え至りました。
 いや、実際は思っているかもしれません。そういう可能性は十分にあり、しかも実際に社会的強者であることだってあり得るわけですが、強者と思っているにせよ、何か防衛的な、「自分は違うんだから大丈夫なんだ」と自身に語り聞かせるような、そういう面の方が強いんじゃないか、と思います。
 そもそも強者とか弱者とかいったナイーヴな枠組み自体が嘘くさいもので、普通に考えて、世の中そんな単純な偏差値表みたいにできているわけがありません。でもそういう考えに人がハマってしまう時というのはあって、それは自分自身の弱さに気づきかけた時でしょう。
 「原因はうまくいかない時にしかない」ではないですが、うまく行っている時、人はその原因についてクヨクヨ考えたりはしませんし、特にとりたてて問題のない時、強者弱者といった素朴な枠組みにすがりつくこともあまりないでしょう。何か、うまく行かないものがあるのです、自分自身の中に弱い部分があって、それをつけこまれてひどいことになるかもしれない、そういう影が見えた時に、人は強者弱者といった枠組みにとらわれるのでしょう。
 もちろん、そうは言っても、こうした発言をしている当の本人に尋ねて、そんな弱さをさらけ出すような本音が返ってくることはないでしょう。むしろ防衛的な強がりがかえってくるのではないかと思います。それでもなんとなく透けて見えるのは、自分が実のところ弱い者なのではないか、そしていざとなったら誰も自分を助けないだろう、というぼんやりとした予感です。
 「弱者は死ね!助けを求めるな!」ということを喚いている人がいたら、つい「じゃあお前が死ね!」と言いたくなってしまうのですが、実は喚いている当人も、いざとなれば自分のことなど誰も助けないだろう、という怯えが(意識できないにせよ)あるのではないでしょうか。自分のことだってどうせ見捨てるのだろう、だからコイツらだけを助けるな、死なばもろともだ、ということです。
 心情的には、こうした心理も理解できます。わたし自身も不安になるとこんな気分になることがあります。
 「じゃあお前が死ね!」と言いたくなったとして、本当にそう言ってしまったとしたら、それは予言の自己成就のようなもので、「あぁ、やっぱり自分は見捨てられた、思った通りだ!」という、奇妙な予定調和的効果しかもたらさないのではないでしょうか。「じゃあお前が死ね!」は別にカウンターになどなっておらず、むしろ悪いスパイラルにピタリと符号して完成させてしまう、ということです。
 そういう気分に人が落ち込むことはよくあります。悪いことが起こりそうな時、予め自分の中で悪い予想を巡らせておいて、何が起こっても驚かないように「不幸の予行演習」をしておくような心理です。実際のところ、そんな風に予行演習をしていると、かえって自ら不幸を呼びこむことになるのですが、そうは言っても人の心は弱いもので、悪いことが続くと心を不幸の側に合わせて、不幸に適応しようとしてしまうのです。
 何が言いたいかというと、「じゃあお前が死ね!」といえば、それは正に「弱いヤツは死ね!」を地で行ってしまうことで、何の解決にもなっていない、ということです。
 そういうと、なんとも理想論くさくて、いかにも役に立たない匂いがします。「復讐はなにも産まないんだ!不幸の連鎖に歯止めをかけなければ!」などと安全圏からのたまうのと一緒で、そんな空疎な言葉は本当に追い詰められている人の前ではまったく無力です。
 しかも、ここでいう弱者は、「弱者は死ね!」と呪詛の限りを振りまいている、ちっとも可愛げのない「弱者」なのです。そうした人を前にして、「お前こそ死ね!などと言ったら不幸のスパイラルから抜け出せない!」と言えるのか、というお話です。

 こういうことをよく考えます。人が本当に試されるのは、こういう場面だからです。
 可愛げのある「弱者」が目の前に来て、手を差し伸べてあげる、そんな綺麗な場面ではないのです。
 外山恒一さんが「犯罪者の人権こそが人権」といったようなことを仰っていましたが、たとえば人権で言えば、どうしようもない犯罪者のクズにも最低限のものがある、という意味で保たれてこそ、その真価が問われるのです。可愛げのある可哀想な人ではありません。
 弱者と言っても、死んだほうがマシのようなクズで、もうグダグダのどうしようもない人を前にして、そこで何ができるのか、どう決断を下すのか、というお話です。
 そういう場面で、人は試されるのです。
 試されると言うのは、「こうした場面でこそ自らの言説を貫き通すことができてはじめて本物、ほかは偽善者」などと言いたいのではありません。いや、実際、ここで貫き通すことができれば本物中の本物で、実に立派なことではあると思うのですが、それができないと0点という話ではありません。できなくても50点くらいはとれるでしょう。
 「試されている」という意味は、その試験で100点とれないと全部0、というようなお話ではありません。60点でもいいかもしれない。
 ただそれでも、試されているという事実には変わりありません。決まった解答もなく、純粋にただ、試されているというだけです。

 解答がないので、どうすれば正解、というのはわかりません。少なくともわたしにはわかりません。
 「救いようのないクソ弱者」を前にして、マリア的観音的母性でも発揮してこの人を受け入れ、成長させ、強さを持たせることができれば立派でしょうが、生憎わたし自身はそんな性分でもなく、そういう薄気味悪い母性神話的なキャラクターは、むしろ後ろから蹴飛ばしてやりたいくらい嫌いです。
 わたし自身は、こういう人たちの呪いを解くことなどできないでしょう。その呪いの予言が自己成就するように、やっぱり「お前こそ死ね!」と蹴飛ばすかもしれません。引き金をひけば、撃たれた者は「不幸な安心感」を抱いて、それ以上死なない者となり、そして撃った方に呪いが伝染るのです。
 ただせめて、一切の正義をまとわず、きちんと人殺しの顔をして撃ちたいとは思っています。単に「お前が嫌いだから殴る」ということです。
 もちろん、撃つ前に撃たれるかもしれません。こんなゴミのような最後の倫理を貫くことすら、容易ではありません。
 呪いか死か、なら、呪いの方を引き受ける方がいくらかマシ、という、それだけです。死の方がマシ、という人も沢山いらっしゃいますが、わたしは呪いの方をとる人間です。多分、わたしはもう呪われている方で、そういう意味では「救いようのないクソ弱者」と同じ穴のムジナです。
 それはもう仕方がない。申し訳ないけれど、この呪いは次の世代まで先送りさせて頂き、ただ人殺しの顔をするのが精一杯です。
 呪いを解くほどの強さを持たない、その他大勢の一人でしかないのですから。