静かにそっと軽い蓋をする

 「弱いヤツは勝手に死ね」に「お前こそ死ね」とかえすことのつづきのようなお話を少し。

 先にも書きましたが、「世の中に強者と弱者がいる」というのではなく、強者弱者という枠組みでものごとを考えてしまう、というところに呪いがあります。
 本当のところ、何らかの尺度で比較すれば、確かに強い弱いというのはあるでしょう。でもそれがあるということと、強者弱者という枠組みが前景化していることとは、全然違います。
 例えば、世の中には爪が丸っこい人と細長い人がいますが、「爪の丸いヤツと細長いヤツがいる、自分は丸いから選ばれた民だ!」とかいう人はいません。比べたり並べたりしようと思えば、世の中には無数の尺度がありますが、そこに価値判断が乗せられ意識の前景で支配するかどうかは別問題です。
 芥川の鼻ではないですが、一度それが気になってしまうと、もうそこから目が離せなくなってしまう、という状態です。
 もちろん、こうした文脈でいう強者弱者には、社会保障やらといった実際的問題が絡んでいるので、爪の形とは同じではありません。ですが、それが異常に気になって、すべてをその枠組で切り分けるような思考様式というのは、ある種の「呪い」の効果、つまりそこに思考がとらわれ抜け出せなくなってしまっている、ということです。
 それは結局、自分自身の弱さに対する気付き、見捨てられることへの怯え、というものが反転したものでしょうが、本当に深く呪いにハマってしまっている人は、そんな風に落ち着いて考えることはできませんし、そんな説教もそうそう通じるものではありません。

 何の役にも立たないぶっちゃけた話をすれば、人はみな弱いのです。
 弱いから、一寸先は闇で、何が起こるかわからない。何か起こったら誰も助けてくれないかもしれない。百歩譲って誰かが助けてくれたとしても、やっぱり助からないかもしれない。
 それはある意味当たり前のことなのですが、そう思ってばかりいると不安で生きていけないので、蓋をしておくのです。蓋をして強がって、「自分だけは大丈夫」と思っておきたいのです。
 それもまた人の性ですから、そのこと自体を責めることはできません。あぁこの人は弱いのだな、怯えているのだな、と思ったとしても、強がりや攻撃性は言わば陽性症状であって、そこだけ取り除いてどうなるものでもありません。そうした症状は、むしろ世界に適応しなんとか生きていくための営み、治癒の一部とも言えるからです。
 攻撃性は「かさぶた」であり、その下にあるのは通奏低音的な不安、弱さ、怯えのようなものです。そしてこの不安そのものは、ある意味まったく正しい不安なので、完全に消し去ることはできません。

 わたし自身は神様を信じている頭のおかしい人なので、神様の前ではわたしたちはみな、消しカスみたいなもので、頼りになるのは神様だけだと思っています。
 もちろん、わたしが道で転んでも神様は助け起こしてくれるわけではないですし、わたしが競馬かなんかでスッカラカンになっても、神様が生活費を振り込んでくれることはありません。要するに神様は特になにもしません。
 そういうものだけが頼りだ、というのは、実は不安そのものの原因たる寄る辺なさをそのままに受け止めることでしかないのですが、神様以外に目をむけた状態で寄る辺なさに気付いてしまうと、そうした実際的な人間関係や社会などに黒いエネルギーが流れ込んで、攻撃的になり、ひいては自分自身も破滅へと引っ張られていってしまうのです。
 だから、この世で唯一文句のつけようのない神様にすべての責任を預け、ただただ寄る辺なさの中に立つのです。
 「文句のつけようのない」というのは、神様がとても素晴らしいから非の打ち所がない、という意味ではありません。いや、宗教上はそういうことになっているかと思うのですが、ここで言っているのはそういう意味ではなく、「文句をつけてはいけません」というか、「文句をつけてもどうしようもない」ものとして措定されている、ということです。
 神様は神様の都合で動くので、神様のなさること、つまりこの世で起こり、わたしの身に起こることが、わたしにとって都合が良いわけではありません。そういう意味では文句は大変言いたいのですが、何せ最初から神様はご自身の都合だけで動いているので、わたしの都合に良いか悪いかは関係ありません。ただ、神様は(定義上)わたしのことをわたし自身より知っていて、わたし以上に考えてくださっているはずなので、なにか悪いことが起こっても、「さっぱりわかんねーけど何か神様的には良いことなんだろう、なぜ良いのかは死んでのお楽しみ」と考えるしかありません。
 要するにこれは諦めるというようなことで、実質何もしていないのと一緒かもしれませんが、わたしは心が弱い人間なので、こう思っておくといくばくか諦めるのが楽になるのです。

 そんな調子なので、呪いが降りかかって、どんどんその深みに嵌りそうな時は、神様のことでも考えれば多少は良いのじゃないのかしらん、と思うわけですが、世の中には神様の嫌いな人も沢山いるので、そう簡単ではないでしょう。
 わたし自身、神様は好きですが宗教についてはクソ面倒くさいと思うところの方が多いですし、宗教とかはやめときゃよかったと思うこともあります。
 実際上は、わたしたちは社会の中で生きていくしかないので、宗教=社会という要素もナシで済ますわけにはいかないのですが、わたしたちの住んでいる世の中はかなりバラバラ度が進行しているもので、わたし自身そこにどっぷり浸かっていて、今更どうしようという気もありません。社会を変えようなどという気もゼロです。むしろ、半径二メートルくらいのこの場所でとにかく生きていくことこそが信仰に叶う道なのではないかと思うし、宗教の方はその苦境にあわせて適宜自分でなんとかしていけばいいと思っています。どのみち神様はお一人だと思うので。

 なんだか話がズレてしまいましたが、言いたかったのは、とにかくここは寄る辺ない場所で、もう最初からずっと不安なんだ、ということです。
 不安はイヤなので蓋をして生きていきたいのですが、蓋にも色んな種類のものがあって、あんまり慌てて重い蓋をバーンとか投げてしまうと、周りにドロははね散るし、自分自身もどろんこになってしまったりします。
 「蓋をするな!深淵を直視せよ!」と言えば勇ましいですが、それもまた「弱者は死ね!」的な呪いに絡み取られています。
 だから静かにそっと軽い蓋をしておくのです。
 その蓋は本当に軽い蓋なので、うっかりすると踏み抜いてしまいますから、蓋をしながらも「ここに穴がある」といつも心の片隅においておかないといけません。
 蓋の場所を忘れるくらいに安心できれば幸せですが、忘れると蓋を踏抜きます。でもそれも神様の思し召しなら、そういう運命だったのでしょう。
 いろいろ、仕方ないです。