正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代

 理不尽に対する怒りと楽をしたい一心やら色んなところで書いているけれど、正義と怒りというのは背中合わせのもので、何らかの「正しさ」(とその時その人だけは少なくとも信じているもの)なしに怒りというものはあり得ない。つきつめていくと、正義と必要悪というのはほとんど同じようなものだ。正義はなるべく少ない方が良いけれど、まったくなくしてしまうということもできないので、正義のうまい蕩尽法、正義の安全な燃やし方というのがキモになるかと思う。
 非常に多くの人々は、びっくりするくらい「正しく」ありたい。
 なんかこの例えを何度も何度も書いているような気がするけれど、シャーリーズ・セロン主演の映画『モンスター』の最後の方で、主人公が涙ながらに「わたしは・・わたしは良い人間なんだ・・」と言うところがある。この映画の主人公は連続殺人犯だから、常識的に考えて「良い人」ではない。映画のストーリーを追ってみれば、情状酌量の余地というのはあるのだけれど、それにしたって人を何人も殺してお金を奪っているような人間のことを「良い人」とは呼ばない。普通に考えれば「悪い人」だ。それでも、追い詰められた主人公は「わたしは良い人なんだ」と言う。もちろん、自分でも人を殺すのが悪いことだとわかっているから、だからこそ、「それでも良い人なんだ」「それでも『本質的には』良い人間なんだ」と言いたくなるのだ。
 「本質的には」というのは胡散臭いマジックワードの一つで、「仕事はサボるし掃除もしないし浮気はするしすぐキレるけど本質的には良い人間」等々と、どんな相反する内容が羅列されていても最後でひっくり返してしまう。散々足し算してきたのに最後に-1をかけてるみたいな手品だ。要するに「本質的には」というのは何も言っていないに等しいのだけれど、そういう空っぽの「本質」というものをわたしたちはどこかで信じているし、そういうものがないと生きていけない。
 理神論的な神というのをとことんまで突き詰めていくと、ちょうどこの「本質的には」と似たような感じで、実際上は何もしない、汎神論的な存在になる。しかしその一方で、そのような透明な神を語っている「わたし」は具象にまみれているし、神と一体となった世界そのものも個別的具象であり、「わたし」と「この世界」は不可分である。これもまた、「本質的」の力のなさとパラレルな関係にある。「仕事はサボるし掃除もしないし浮気はするしすぐキレる」の方が具体的な「この世界」だ。
 話がズレたけれど、要するに人は「正しさ」というものを捨てるに捨てられない。正義がなるべく少ない方が良いにしても、まるっきりゼロにはできないし、正義ゼロな世界などという「ユートピア」を夢想したところで、実際的な解決には何ら結びつくところがない。それはちょうど、神を理神論的に透明化したところで、「この世界」という偶然性は目の前に残ったまま、というのと同じことだ。
 ところで、この正義というものは、この「この世界」というものとも深く結びついている。正確に言えば、人が長く生きていると、段々と「この世界」と正しさがべったりと張り付いてくる。
 どういうことかといえば、「今までやってきたやり方が正しい」「なんだかんだでここは良い世界だ」ということだ。
 その「この世界」とは、当然ながら時間空間的に個別的なものでしかなく、時と場所が違えば道理も違ってくるに決まっているのだけれど、わたしたちは偏在的な存在者ではないので、「この世界」には限りがある。そして、(空疎な相対主義を振り回すのではなく)透明な神ならぬ具象の神の世界で生きるのが真っ当な大人というものなのだから、「この世界」の具体性に殉じて生きるのはもちろん、まともな生き方ではある。
 でもそのまともな生き方をずっとしていると、「この世界」と正義そのものの見分けが段々つかなくなる。
 古館伊知郎さんの「空白の12年間」 – いつか電池がきれるまでという記事の中で「『ドラえもんは大山のぶ代で、水田わさびは認めない!』と言いながら、『ドラえもん』を今は観ていない大人たち」という表現を目にして、うまいこと言うなあ、と感心したのだけれど、丁度そんな感じだ。
 大山のぶ代こそが「この世界」であり、正義だ。「俺の町で勝手はさせねぇ、俺のドラえもんでは大山のぶ代以外認めねぇ」だ。
 こういうのは、大山のぶ代で育ってしまったものからすればある程度避けられないことで、彼または彼女が「この世界」たる大山のぶ代に忠実に生き、「何も言えてない相対主義」などに振り回されてこなかった、つまり「ちゃんと」生きてきた証ではあるのだけれど、やっぱり、今のドラえもんファンからすれば大きなお世話であって、興をそぐものだ。
 夫婦別姓なんかも似たようなもので、夫婦同姓が当たり前の世界、大山のぶ代でやって来たから、今更別姓とか言われても「俺の町で勝手はさせねぇ」という気持ちになるのだ。なぜなら、正義は「この世界」とペッタリ張り付いてしまっていて、抽象化できるものではない。というより、本当のところ、正義を正義として上澄みだけ取り出すことができない限りにおいて、その残滓についてのみ、正義は成り立つのだ。上澄みとして抽象化できてしまったものは、単なる剰余であって、「必要悪」の「必要」を満たしていない。それは単に、捨ててしまっていいところなのだ。すると、残りの「必要」要素に限っては、もう「この世界」と張り付いて具象の中にみっちり染み入ってしまっていて、今更洗濯機に放り込もうが脱水しようが分離することができない。
 それが「俺の町」だ。大山のぶ代だ。
 ことわっておくけれど、大山のぶ代原理主義みたいのを振りかざしてオッケー、などという意味では全然ない。明らかにそんなものは横暴だし、迷惑だ。大体、もうドラえもん見てないじゃないか。
 そっちの方がまずベースであって、もう結婚しているヤツが「今更夫婦別姓なんてフリーダムなこと言われたら困る」みたいに「俺と同じ苦労をお前に」的な発想はとりあえず迷惑、というのが出発点だ。
 それでもなお、捨てきれない「正しさ」と大山のぶ代がペッタリ張り付いてしまってもうどうにもならない、というもう一つの方の現実を見てやらないといけない、ということが言いたいことだ。
 「そんなこと知るか!」というのは誠に尤もで、個人的には自分もそう言いたくなるのだけれど、やっぱり「知るか!」では済まない。
 本当に、うんざりすることに、人間はそうやって生きているのだ。大山のぶ代なのだ。

 ここで突然、昔飼っていた猫のことを思い出す。
 猫を飼っていた時はすべてが猫中心で、もう自分の命より猫の方が大事なんじゃないか、みたいな暮らしをしていた。それでいて、猫に振り回せれているとは少しも思っていなかった。猫が中心にあるのが当たり前だと思っていたのだ。猫イコール世界、そして猫を通じて世界の具象がわたし自身の身体の如く一体化している。猫の痛みが「わたし」の痛み。そしてそれゆえにこそ、世界にわたしがいる。そんな感じだ。
 猫ですらそんな調子なのだから、子供がいたりしたら、子供が中心、子供のためなら腕の一本や二本ちぎられても痛くない、なんてことは普通にあるのだろう。
 そんな風に、わたしたちはこの世の中にある誠に偶然的なものと運命的に結び付けられている。
 こういうのが正義であり、「この世界」であり、大山のぶ代だ。
 ドラえもんが大山のぶ代であったのは全く偶然であったのかもしれないけれど、それは運命的で、既にわたしたちはドラえもんが大山のぶ代である世界を十分に生きてきてしまっている。今更水田わさびとか言われても、そんなものドラえもんとは思えない。
 本当のところ、それでもやっぱり、頑張って時間をかけて水田わさびを受け入れるしかないのだけれど、それが簡単ではないことは誰にでも想像がつくだろうし、そんな風にかける時間がもう残されていない人たちも沢山いる。百歩譲って多少は時間があったとしても、そこのかける時間が水田わさびに見合わない、割に合わない、と思う人たちが沢山いる。
 もうこういうのはどうしようもない。
 文字通り、この人たちの時間がゼロになってくれるのを待つしかない。
 そうでなければ、縛り上げて「水田わさびを認めるまでボクはキミを殴り続ける!」とやるしかない。そういうやり方が非道とか何とか言う以前に、圧倒的に非効率的で、多分認める前に殴られすぎて本当に時間がなくなる(大山のぶ代をナメてはいけない、これが猫、あるいは子供だったら? わたしなら水田わさびよりは殴られて死ぬ方を選ぶ)。
 だから結論としては、特に答えはなくて、途方に暮れて時が解決するのを待つしかないと思っている。
 ほとんどのことはあまりのも偶然的であまりにも運命的なので、大山のぶ代が時の地平線に沈みきるまで、ただ呆然と見つめているしかない。
 できることがあるとすれば、とにかく極力「俺の町」を小さくしておくことだ。せめて、この時が過ぎ去るときには、わたしの大山のぶ代が大きくなりすぎないよう、身辺の整理をつけておくことだ。
 正義を捨て、小さく虫のように、かつ祈りを欠かさず生きていきたい。