良いことと悪いことと賭けることと祈ること、それ以外

 良いことと悪いことがあるのだろうか。


①良いことと悪いことがある
②良いことと悪いことはない

 多分、神様にとっては良いことも悪いこともなく、ただ事象があるのみなのではないかと思うけれど、人間にとってはある。人間は常に起こったことがらをある一つの場所と時から眺めているので、それが良いことか悪いことかは別として、良いことと悪いことはある。起こったことのすべてが良かったり悪かったりするわけではないが、良いことと悪いことは(人間にとっては)ある。
 そうだとすると、良いことと悪いことは予見できるのだろうか。


①良いことと悪いことは予見できる
②良いことと悪いことは予見できない

 これも割と簡単な話だけれど、起こる事象のすべてを予見できるわけがないし、かなりの精度で予想可能だとしても未来を完全に確かなものとして予見することはできないし、また重要なことに、起こったことが良いこととなるか悪いこととなるかは、また別の問題だ(ある一つ事象が発生したとして、それが良いことととられるか悪いことととられるかは、事象の発生・確定以降にも変化し得る)。
 つまり、「良いことと悪いこと(というものは)あるが、一方でそれを予見することはできない」ということで、こんなことは至極当たり前で確かめるまでもないことのように見えるけれど、わたしたちの態度を振り返ってみると、それが当たり前であるようには振る舞っていない。
 良いことと悪いことを予見できないにしても、良いことが起こるように色々と力を尽くす。力を尽くすことのない場合、特に努力しない、あるいは努力のしようがない場合でも、良いことが起こるように望むし、そのように祈る。それがこうじると、「2①良いことと悪いことは予見できる(あるいは操作できる)」かのうような振る舞いというのもある。
 その一方で、動かしようのないことについてやたら頑張るのは無駄なことであるし、心の平安という意味では達観して何が起ころうとそのままに受け止める、という態度もある。しかし、こうして心の平安を保つ、動じない、ということも容易ではないので、それを支えるために「1②良いこととか悪いこととか、そういうものはないのだ(事象はただ発生するのだ)」という態度がある。いわば神様(またはそれに類するような何か)の視点に身を預ける、というものだ。

 それで話が終わるかというと、まだ続きがある。
 かりに「良いことと悪いこと(というものは)あるが、一方でそれを予見することはできない」という、最も常識的に見える考えをとるとしても、そのような「予見不可能な良いことと悪いこと」に対する振る舞いは一つではない。


①良いことと悪いことはあり、かつ予見できないので、諦める
②良いことと悪いことはあり、かつ予見できないのが、賭ける

 ①の態度は、結果として「1②良いこととか悪いこととか、そういうものはないのだ(事象はただ発生するのだ)」に似る。ただ、1②の振る舞いがある種の信念、自らの視点を人ならぬものに仮託する、という行いがあるのに対し、3①は素朴に未来が(良かったり悪かったりするにもかかわらず)予見できないことを受け入れ、なおかつ、手の施しようもないので単に諦めている。
 この振る舞いは一番常識的な判断のように見えるのだけれど、実際上、この態度を厳密に守り続けるのはとてもむずかしい。多くの場合、わたしたちは「(世の中には)良いことと悪いこと(というもの)があるが、どちらが起こるかはわからない」と「知って」いるのだけれど、その知に従って何もしないでボーッとしていることはなかなかできない。そのため、「予見できる(あるいは操作できる)」と考えたり、逆に「良いとか悪いとか、そういうものはないのだ」という境地を求めたりするのだ。
 その一方で、3を成り立たせる知をすべて受け入れた上で、なおかつ全く無駄と知りつつ「賭ける」という振る舞いがある。一般に行われている賭けには、(競馬のように)一定の範囲で予測が可能なものと、(サイコロの目のように)全く予測ができないものがあるが、この場合は後者の賭けに似る。正確に言えば、予測可能性というものがすべて使い果たされた後、なお賭けるか、という選択において、賭けている、ということだ(そして、どこで予測可能性が完全に潰えるか、ということはしばしば「予測できない」。つまり、予測可能性の地平線は不分明である)。
 わたしたちは、非常にしばしば、この「賭ける」態度に身を預けている。知を否定するのではなく、それを一旦受け入れて、なお「賭ける」という振る舞いをとる。だから、仮に「賭ける」態度に戒めるべきものがあったとしても、知をもってそれを説くのは無駄である。なぜなら、多くの人々は知っていてなお賭けているからだ。
 賭けには何か、心おどらせるものがある。「射幸心を煽る」とされるものは、常に良いことが起こるものではなく、良いことが起こったり起こらなかったりするものだ。冷静に考えれば、良いことが起こったり起こらなかったりするものより、常に良いことが起こるものの方が得のようだけれど、わたしたちが心惹かれるのは賭けの要素をはらむものだ。
 多分、わたしたちの生がもとより「賭け」のようなもので、賭けに心踊ることに何かわたしたちを生かせるものがあったのだろう。黒い影に反応してバッタがジャンプするように、音に驚いてキジが飛び立つように。

 祈りの文脈において、しばしば「賭ける」態度は罪悪とされている。通俗的なものの見方をすれば、「射幸心を煽る」ものは人心を荒廃させるもので、社会的に望ましくないから、ということになるのだろう。実際、そういう(社会全体を見た時の)功利的意味もあったのだろう。
 しかし本当のところ、祈りの文脈が賭けに対して否定的なのは、両者の「キャラがかぶる」からではないかと思う。つまり、祈りは賭けにとても似ている。そもそも「賭けに勝つことを祈る」ということは大いに有り得る。
 祈るという態度が明らかにするのは、「良いことも悪いこともない」という位置が(ここではないどこかに)ある、ということで、さらに「(わたしたちにとっての)良いことと悪いことを予見できる」という位置がある、ということだ。いや、本当のところ、そんな場所はないのかもしれない。そのこと自体は実はそれほど重要ではなく、大事なのは「(そういう場所があるにせよ)わたしたちの場所は違う」ということだ。そのことを析出するために、「どこか一つ」「誰か一つ」というものが措定される。つまりファルス関数的なものだ。わたしたちがすべて去勢されている、より正確に言うなら、去勢されざる(去勢したもの)ではないわたしたちという「すべて」がある、ということを成り立たせるために、去勢されていないものが遡及的に立てられなければならない。
 もう一つは、わかりようもないことから心を一旦引き離す、ということだ。賭けるという態度はファンタジーを形成するもので、それはわたしたちをこの世界につなぎとめるために必要なものではあるのだけれど、一方で、そのファンタジーに耽溺すると、「予見できる」隘路を探し求めるような迷宮に嵌り込むことになる。祈るということは、実のところ、祈った先には何もない、ということだ。祈って預けてしまって、もうその後は投函した郵便物のように、郵便屋さんに預けてしまうしかないのだ。わたしたちが郵便物を到着まで見届けるようなことには意味がない。投函して、そして家に帰る。
 諦め切れてはいないのだけれど、それでも家に帰るために祈る。だからこれは、何もしないために(何もしないということができないので)何かをする、というような行為なのだろう。
 わたしは賭けというのはギリギリまで避けるべきものだと信じているのだけれど、ギリギリまで行ってまだ先というものがある。そこは祈って家に帰るしかない。
 しかし一方で、その選択自体が一つの賭け、つまり賭けないことに賭ける、ということとも言える。そういう意味では、賭けないものも少なくとも一度だけ賭けている。

 ところで、以上のことをすべて台無しにしてしまうようなお話なのだけれど、唯一の例外によって「すべて」を成り立たせる、という態度自体、すべてではない。その残余を生きるために、例外による方法はこうして紙に書き留めて、封をしてポストに入れてしまえばいいと思っている。わたしが家に帰った後のことは、書かれない。