人類の未来について心配したい欲

 宇宙開発に関する記事を読んでいたら、その記事に対し「(惑星の寿命もあり)いずれ人類は宇宙に出ていくしかないのだから、少しずつ頑張って欲しい」といった内容のコメントがあり、なかなか面白いな、と思った。
 そういうことを考える人というのはいるし、わたし自身、気持ちはわかる。
 ただ、冷静に考えればそれは長大な未来の末の話であって、わたしたちが心配してどうにかなるものでもないし、直接的に影響を受けるものでもない。わたしたちが直接に影響を受けたり与えたりできるのは、自分の寿命と、せいぜい子と孫、頑張ってひ孫くらいの世代までの話で、そこから先の未来も過去も、あってないようなものだ。
 それはあまりに近視眼的、利己的と思われるかもしれないが、それを言うなら、惑星スケールでものを見る時に人類の存亡を考えているのも自己中心的といえる。人類という種の寿命が尽きて、親が子、孫にゆずるように、別の生き物に後を任せても良い話だ。大体、種という概念自体、わたしたちが普段考えているほど明瞭なものではなく、自然の中に「ここからここまで」と線がひかれてるものでもない。すべてはつながっていて、一つの系を為しているとも言える。そうなったら、一体どこまでが心配の領分なのか、よくわからなくなる。
 人類の未来に対する心配を、時間ではなく空間の方に広げると、地球環境に対する心配などが近いものになる。こちらは一応、時間スケールで言えば自分や子、孫くらいで影響を受けなくもないので、もう少し合理的な(見せかけの)理由付けをできなくもないが、例えば、滅んだところで少なくともあと百年くらいは人類にとって特に得も損もない、とりあえず自分の家族親戚や会社にはとりたてて影響もなさそうな生き物について心配している時、それは大陸の形が変わった後の人類に対する心配に似たものになってくる。
 こうした心配というのは、少し馬鹿馬鹿しいもので、一見すると超越的な正義を目指しているようでいて、(次の種に席を譲ってもよい)人類のことだけを考えていたり、別段純粋に利他的なものでもない。半径百メートルと自分の家族の心配だけをしている、不分明で田舎臭い世界観の、その利己的な心配の心配成分だけを抽象化して、壮大な空間に投影したものとも言える。
 こういう壮大な心配をしている人が、部屋の掃除も満足にできていなかったりすると、それは地に足がついていないというもので、人は基本的に、まず身の回りと周りの人々の心配をすべきで、実際に影響力を及ぼしたり及ばされたりするのは、せいぜいがその程度なのだ。そこをしっかり地道にやっていくのが、真っ当な大人というものだろう。誰だったかが「世界革命より部屋の片付け」と言っていたけれど、そのくらいが普通の人間の領分というもので、そこが出来ないのに壮大な夢だけ語っていたら、滑稽と言われても仕方がない。

 ただ、言いたいのはそこではなく、あくまで部屋の片付けや田舎臭い身の回りの心配が基本ではあるけれど、それと同時に、人類の未来について心配したくなる、そういう欲がわたしたちにはあるのだ、ということだ。
 わたしも、人類の未来について心配したい。ああ心配だ。
 それはあくまで欲であり、スケベ心にすぎないのだけれど、そういう浮世離れした心配に頭を悩ませたりしたくなる、そこで正義を語ってみたくなる、そういう面がわたしたちにはある。
 重ね重ねこれはスケベ心なので、そこに振り回されて部屋の片付けを疎かにするようではアカンのだけれど、それと同時に、光年とか兆とかそういう世界もまたわたしたちの心に深く結び付けられていて、そう簡単に振り払うこともできないのだ。
 この欲というのは「正しいことをしたい欲」にすごく似ていて、正しさというのも結局のところ筋道立てて脳みそが楽したいとか、その程度のお話にすぎないのかもしれないけれど、一方で欲自体は拭い難くわたしたちの身体に染み込んでいる。欲に振り回されて「正しいこと」に飲み込まれてしまってはいけないけれど、完全に根絶やしにすることもできない。
 だから「正しいことをしたい欲」にもうまいコントロールが必要で、なるべく「無害な正義」を見付てそこでエネルギーを蕩尽する、という工夫が必要になる。どのみちわたしたちはある程度「正しいことをしたい」もので、「正しくありたい」のだ。だからできることなら、「害はないけれどクソの役にも立たん正義」に身体をなじませておく方がいい。

 「人類の未来について心配したい欲」や「正しいことをしたい欲」は、ファンタスムの要素であって、言わば世界の中に例外者を発見しようという営みが創りだした幻影だ。しかしこの幻影こそが、世界の「本物らしさ」というものを形成している。ラカン的な文脈で言えば、象徴界における欠如、想像された意味を問い合わせても見つからない、その場所において、代わりに立ち現れるものだ。それが抹消された主体と結びつくことで、現実らしさというものが形作られる。
 これはあくまで見せかけの話なので、永遠に続く夢物語ではない。いずれ賞味期限切れになって、わたしたちは再び例外者なき不毛な大地に立たされる。本当のところ、この不毛の地平にこそ享楽というものが根ざすのだけれど、そこに一足飛びにたどり着けるように、人間はできていない。
 わたしもまた、人類の未来について心配したい。ただこの心配がクソの役にも立たず、害ももたらさず、部屋の片付けも忘れない限りにおいて。