無視される感じとベビーカー

 前に何かで、人をウザいとか邪魔だとか思う背景には、対象から「無視されている」という感覚があるからだ、という指摘を目にした。
 たとえば、車を運転していて歩行者が邪魔だ、と思ったとしても、のろのろあるいているそのおばあさんがこちらを見て会釈して「あなたに気付いていますよ、すいませんね」というメッセージを送ってくれるだけで、大分苛立ちが緩和される、という。
 無視されている、というか、関係のなさ、というものが、怒りや苛立ちを過剰にエスカレートさせる、ということはあるように思う。
 頭のなかである人に対してムカムカしていても、実際にその人と話してみると、実は思ったほど問題は大したことはなくて、そこまで怒るほどでもなかった、ということがある。問題自体はあって、怒りの原因そのものに正当性があったとしても、程度の差異というのがある。対象から隔絶されると、感情が勝手にエスカレートすることがある。
 前にもどこかで書いたけれど、スジの方々を相手にする仕事をしている人から、「必ず窓口を開いておく」ということを言われたことがある。つまり、文句があったら必ず連絡できる電話番号などを晒しておき、いつでも対応する、ということだ。そうしておかないと、いきなり刺される、というお話をされていた。窓口があれば、そこに怒鳴り込まれるかもしれないけれど、どんどん怒りが増幅していきなりズドン、というのは避けられる、ということだ。

 ということを、今話題のベビーカーがウザくてちびっ子を殴った事件からまた思い出した。
 ベビーカーはウザいかもしれない。実際、状況によってはかなり邪魔かと思う。ベビーカー以前に、子供がいるのがウザい、という人は沢山いる。わたしもうるさい子供は大嫌いだ(うるさいものはみんな嫌いだけれど)。
 こういう場合も、子供やベビーカーの主がこちらと関係ない振る舞いで邪魔になっているから、余計にウザさがエスカレートしている、という面はあるかと思う。
 その子供や親などと、たとえば簡単な会話があるとか、コミュニケーションがあれば、ウザいはウザいなりに、心のなかでどんどん怒りが膨らんでいくようなことは抑制できるようにも思う。
 多分、昔は子供はもっと知らない人にも構われていて、もうちょっと人と人との距離が近く、関わりが密だった筈だ。実際、現代でも、社会によってはもっとはるかに人との距離が近く、知らない人でもホイホイ話すのが普通、という場所はいくらでもある。個人的にゆかりのあるエジプトだと、カイロなどはものすごい過密都市なのだけれど、地下鉄でたまたま隣りあわせた人と会話するのは当たり前で、特に女性の場合、女性専用車両は一種の社交上になっている。
 もちろん、そういう密な環境は環境で、別の問題が山程あるのは当然だ。脳天気にユートピア視などできない。実際、そういう関係をイヤだと思う人が沢山いたから、現代日本の都市部が「知らない人とは話さない」環境になっているのだろう。日本でも田舎だともう少し気楽に話す傾向があると思うけれど、そういう田舎がイヤで都会に出てくる人が沢山いる。沢山いるから都会には人が多いのだ。
 そして都会で「知らない人と話す」と、ロクなことがないのも事実だ。だから子供には「知らない人とは話しちゃいけません」と教える。
 またわたし個人としても、密な人間関係の世界というのが良いとはまったく感じない。なるべく適度な距離をおいておきたい、と思う方だ。
 とはいえ、そんな人間でもそれが当たり前の世界、たとえばカイロのようなところに行けば、それはそれで慣れてしまい、なんとなく死なない程度にはやれる、といのも間違いではない。「知らない人とペラペラ喋るなんて気持ち悪い!」と思っている人でも、やってみればそんな大したことではない。これも「頭で考えてるとエスカレートする」例で、やればなんとかなったりする。大体、ほとんどの人間はびっくりするくらい「今のやり方」を変えたくないので、それだけの話しだったりするのだ。

 話をベビーカーのところに戻すと、ベビーカーという以上は子供だけではなく親なりその代わりなどがいるわけで、そういう立場の人は、子供ではないのだから、もう少し周りと話してみても良いのかと思う。実際、相手がおばちゃんだったりすると、比較的敷居が低い。おばちゃんにも色々いるので一概には言えないけれど、全体的な傾向としては、「頭でぐるぐるエスカレート」から一番遠いポジションにいる。お年寄りも話しやすい。
 問題は男の人、特に若い男性だと思う。ベビーカーに怒っているのも男性の方が多いだろう。
 これは別に、女性が母親としてより子に近い可能的位置にいるから(というすごく気持ち悪い母性神話)、というより、「知らない人とホイホイ話す度」が男性(特に若い男性)の方が低く、「頭でぐるぐるエスカレート度」が高い、ということではないかと思う。
 これも男性自身が悪い、ということではなくて、人にホイホイ話しかけると一番警戒されて、時々通報されてしまうのも男性だ。これは本当に不幸なことだと思う。
 一番良いのは早く枯れ果てたジジイになって、にこにこ可愛がられるポジションに行くことだけれど、そんな一足飛びに年寄りになったりはできない。
 (若い)男性が警戒されるのは、それなりに警戒される理由があるからではあるけれど、こういう人たちを恐れる人々は、「自分が怖い時は相手も結構怖い」ということを胸に刻んだ方が良い。
 小柄な女性が大柄な男性を恐れるのは、物理的な暴力などを想定すれば当たり前のことだけれど、例えば騒がれて捕まったりすると断然男性の方が分が悪く、大きな男性もそれはそれでビビっている。いや、ビビってないかもしれないけれど、ビビっていると思った方がいい。全く余談だけれど、大体、小柄な女性でも、本気で「ぶっ殺す!」という気合いがあれば、イタチの最後っ屁くらいは食らわせられるものだ。この辺、自分を過小評価している人が多い。気合いが足りなくてもトンカチ一個あるだけでひっくり返せる程度だ。
 この法則は色んなことに当てはまって、例えばスポーツの試合などでは、「自分がしんどい時は相手もしんどい」と言う。もう倒れそうでヘロヘロでも、相手も同じくらいヘロヘロで、あとパンチ一発で倒れそうなんだけれど、無理して立ってるだけかもしれない。実際、そういうことはよくある。いや、そうじゃないかもしれないし、本当に相手は余裕たっぷりなのかもしれないけれど、「相手もしんどい」というつもりでいかなければ、うまくいくこともいかない。そして大抵、自分がしんどいときというのは、自分のしんどさにだけ目がいって、相手のしんどさに気づかない。だからそういう教えがあるし、実際、有効だ。
 と、何が言いたいのかよくわからなくなってきたけれど、世の中はもっと(若い)男性にビビらず、ヘイヘイピッチャーへばってるよーくらいのつもりで軽く構えて、仲良くした方が良いんじゃないかと思う。いや、厳しいかなぁ。厳しいかもしれないけれど、もうちょっとだけやり取りのある環境の方が、無用な脳内エスカレートは防げるのではないか、という気はするのだけれど。

 まぁ、実際上はこんなことは言うのは簡単でもなかなか難しいとは思う。
 知的障害を負った大柄な子を怖がる人が時々いるけれど、わたしはああいう子らが割と好きで、こういうことを言うとイケナイのかもしれないけれど、大きなピレネー犬とかみたいな感じで、可愛く感じてしまうことがある。いや、この方がむしろ酷い態度かとは思うのだけれど、別に怖くはないし、話しかけられるとかまってしまう。
 で、実際ある電車の中でかまっていたら、すっかりなつかれてしまって、一時間くらい同じようなやり取りをリピートする羽目になって、困ったことがある。
 だからまぁ、気軽に話せば何でも良いとは全然言えないのだけれど、なんというか、そんなに脳内でグルグルしなさんなや。
 自戒だけれどね。