飲食店などで外国人の店員さんがいることが多くなった。
この間、こういう店員さんがいるとお店の人にとって良いことが結構ある、という記事を読んだ。
混んでいる時などに「ちょっと詰めて」とか「もう片付けていいですか」とかサラッと言えて、かつお客さんも文句を言わないからだそうだ。
このお客さん側の気持ちというのは、なんかわかる感じがする。
外国人、というより日本語ネイティヴじゃないと、細かい機微みたいのが伝わらなくても「まぁそういうものか」と受け入れる気持ちになる。
海外を旅していてもそういうことはよくあって、言葉が今ひとつ通じなかったり、育った環境がすごく違ったりすると、色々と細かいところが通じないのだけれど、それで腹が立つかというとそうでもなく、むしろお互い満足の閾値みたいのが下がって、テキトーでもまぁ良しとするし、お互い良い方に受け取りあって、それなりに回ったりする。変に通じ合うよりよほどうまくやれたりする。
反対に、日本で日本人の店員さんの気が利かなかったり、礼節をわきまえていなかったりすると、やはりイラッとしてしまうことがある。なぜイラッとくるのかといえば、「できるはずのことができない」と感じるからだと思う。閾値が高いのだ。
上の外国人の店員さんが色々サラッと言えてしまう、というエピソードなどを見た時に、「外国人は大雑把だから」などという、それこそものすごい大雑把な捉え方をしてしまう人がいるけれど、そういう話では全然ない。大体、日本以外は全部外国なんだから、アメリカもモザンビークも一緒くたという、すごい話だ。
「日本人は気が利く」とか「オモテナシ」とか、ほんまにアホかと思うのだけれど、そういうのは単に同じような環境で育っていれば大概のパターンが似通っていて経験済みなので、言われなくてもそれなりに通じる、というだけの話だ。
モザンビークにはモザンビークの当たり前というのがあるだろうし、普通の日本人がポンとモザンビークに放り出されたら、そこの当たり前にはまるで気が回らないし、知らない間に色々と粗相をしてしまうことだろう。それを見てモザンビーク人が「外国人は大雑把だ、やっぱりモザンビーク人は気が利く、オモテナシ!」とか言ってたら滑稽に見えるだろう(しかしそういう人は確かに世界中にいる)。
それでも何か日本特殊的なものを見つけるとしたら、それは単に等質性ということだろう。と言っても、近代以前は言う程等質だったわけでもなく、血で血を洗うアレヤコレヤの挙句にそれなりに均された感じに仕上がったということだろうけれど、その辺を割り引いても割と等質性の高い環境ではあると思う。
そういう空間に長いこといると、色々「通じる」ことが多いので、お互いそれを当たり前だと思って満足の閾値が上がってくる。ちょっと粗相があってもイラッとくるようになる。
もちろん、そういう環境には良いところが沢山あって、普通に考えてコミュニケーションコストがグッと低くなるし、チームで作業したりする能率は断然良いだろう。
ただ、ちょっと何か通じなかったりした時にイラッとくる度合いも高くなってしまって、そういうのに一々イライラするのはお互い疲れるし良いことがない。
牛丼屋さんの外国人店員みたいのが、もっと増えてくれば、だんだん皆んなそういうのに慣れて、閾値が下がって人生楽しい度があがるかもしれない。色々能率も下がるだろうけれど。
通じない人の多い環境、等質度の低い環境に育った人は、そういう意味ではイラッときにくいかとは思うけれど(傍から見ている分にはそういう感じがする)、それでも親族などの近い環境ではそれなりにイラッときているだろうし、別にそれが理想社会だとも思わない。
ただ、現代日本の今の基準はちょっと閾値が高すぎる感じはするし、もうちょっと通じないくらいが普通なんじゃないかという気もする。その辺は塩梅だから、どこがベストとか言えないのだけれど。
別に社会全体でベスト塩梅を目指す必要もないし、どうしてもイラッときてしまう人は、そういう閉じた均質な社会に引きこもって、そこで静かに暮らしたって良いと思う。そういうのが性に合う、という人は沢山いるし、人類の大多数もそういう「村人」的なローカルな人たちだろう。それはそれでいいと思う。
ただ、そういうところからもう出てきちゃった人たち、東京みたいなどのみち今更閉じようもないところで生まれ育ったり暮らしていたりする人たちは、諦めてその辺通じないのが当たり前な方に合わせた方が、生きるのが楽なんじゃないかと思う。
「話は通じないけど、多分いい人なんだろう」という、根拠のない思い込みで、結構うまくいくこともある。
実際は悪い人のこともあるので、これで万事オッケーとは言えないのだけれど、悪い人はどのみちいるので、ババを引くまでは良い方に賭けておいてもいいんじゃないかなぁ。ババはどっちにせよ時々引くもんだよ。