どっちでもいいんよ!

どっちでもいいんよ! 大概のことは!
でもどっちでもいいことを、どっちかがいい、と言いたがる人が沢山いるの。
そういう弱さを、人間は持っているんよ。
つぶあんかこしあんかとか、賃貸か持ち家か、みたいな。
好きにせーや!
いや、つぶあんこしあんなら、(大抵の人は)基本「好きにせーや」だと分かって話してるから、それはそれで問題ない。単にワキャワキャ言いたいだけだし、そういうのは大変よろしいことかと思う。楽しいし。
だけどね、本気で「どっちかがいい」と思われてることも沢山あって、それが本当に恐ろしいわけよ。
「どっちでもいい」というのはキツイのよ。試練なのよ。世の中厳しいのよ。
それが辛いから、「どっちかがいい」と言いたいし、それは正しさへの欲に負けてるということなのよ。
ほとんどの人は、自分でもよく分かっていないくらい、正しくありたいのよ。
それはもう、抗い難く正しくありたい。
正当性というものがあるから、怒りというものもある。
不条理や!なんでウチがこんな目に!というのが怒りというものなんだから。
でもね、本当に本当に正しくあろうと思ったら、一周回って裏返って、「どっちでもいい」という奈落の底のような孤独と向き合わないといけないのよ。
これが辛いのよ。
人は孤独には勝てないからね。
話がズレるけど、この「人は孤独には勝てない」というのは、某サウジ人が座右の銘的にあげていた言葉で、ウチは割と孤独に強い系だと思っていたので、最初に見た時は「ケッ」と思ったのよ。
でも何年か経って、孤独というのはそういうことじゃない、単に友達いないとかそういう話じゃなくて、本当の寄る辺なさ、「どっちでもいい」というのがあって、これは大変キツくて、人はそれに勝てない、と思い知ったのよ。
人は孤独には勝てない。
勝てないけどね、あるいは勝てないからこそ、「どっちでもいい」という孤独を、心のどこかで持っていないといけないの。
それは生きていながら、最後は死ぬんやな、ということを心のどこかに持っているようなもので、持っているからといってそれは死大好きみたいな意味では全くなく、最後の最後までギリギリ粘って生き抜いてやる!ということと表裏一体なわけよ。
正義は助けてくれない。それは怒りと一体となったものだから。
助けてくれるのは、正義とか悪とか、そういうのの向こうにあるものよ。
「どっちでもいい」ということよ。
その孤独から来て、孤独に帰る。
この深淵とどこまで共に生きていけるか、そういうテストが、今続いているのだと思う。