一、しかない

 振動なのだ、と突然に気付いた。
 稽古していてハッとした。こういう瞬間があるのでやめられない。
 不動に見えて微動というのは当たり前というか、ずっと言われていることで、それが上下、前後、開合、回旋、それぞれに出るというのは、反力のことかと思っていた。抵抗でかえってくる力(そういえば四年くらい前に大発見だと思って興奮しながら語って研究していた…恥ずかしい…)。
 もちろんそれもあるし、それがなければ話にならないし、ここまででも年単位でかかるわけだけれど、抵抗とか反力とかがあった上で、自然な振動がある。
 振動というのは「あっちに行って、それから戻って」などと一々操作しないでも自動でずっと続くから振動なのであって、そのためには身体がハマって、内腿と肚、体側から脇、肘が一つでなければならず、かつこれが剛体であってはできない。多分他にも条件があって、なぜできるのかはよくわからないけれど(もちろんこんなことでは困る!明確化すること)、少なくともバラバラでもないし、剛体でもない。その間に丁度無限に振動が続く、共振するみたいな領域がある。
 微動というのはこの振動のことだろう。
 無限でなければ振動ではない(もちろん物理的には無限ということはないだろうけれど)。
 これを保ったまま、必要に応じて動作に出していく。
 言葉ではさんざん言われていたことなのに、全然気づいていなかった。かくのごとく、わかっているつもりでわかっていない。
 振動といっても今までは、びよんびよんとバネになるというか、ただピストンが上下するような状態だった。つまりトランポリンみたいな感じでしかなかった。
 開合でも回旋でも自由に出せなければ嘘だ。それが初めてわかった。これを維持するということだった。多分。
 (余談ながら「突き飛ばす」みたいな動作がよくデモンストレーションされるのは、トランポリン的使い方でも出せるからではないか。格闘技的文脈でも応用するにはもっと色々出し方がないとキツイだろう。というかキツイ)
 もちろんここで終わりではないに決まっているのだけれど。
 まず一つ、これを徹底しよう。まだまだ繊細すぎて使えない。

 勢いのある乱暴なまでの体重移動。その間で途切れがない。みっちりと這うように移動する。
 移動と言っても、まずは脚を寄せること。寄せたところから脚を出すのは応用でしかないし、それが応用だと気づいていないようでは困るだろう。移動と言って脚を出してすたすた歩いて文字通り別の場所に移動することしか思いつかないのでは甲斐がないと思う。
 (前にも書いたけれど足がついてから隙間のあることに気付いて「あっ」となるのは遅すぎる。そんなものは誰でもわかる。そうなるのは寄せたところから足を出す段階で脚でやっているということで、更に遡って寄せるところからできていないし、もっと遡って足が地を離れるところからできていない)
 速くやるのは一般に危ないのだけれど、この段階で敢えて速くやってみる。するとこれはこれで、バラけているところがよく見える。
 わかりやすく言えば、移動の途中で横から押されても全く問題ない、という状態。これはつまり、両方の脚が踏める状態になっているということで、脚ではなく股関節が動いているのが大前提になる。
 そして片方を残し片方が移動するなら、出る脚と一緒に移動するものは何なのか。よくよく確かめて明確化しないといけない。
 これも徹底する。

 それっぽい感じ、借り物の言葉では、やっていないのと一緒。
 つい「らしさ」に騙されてしまう。やっている対象とか、言葉の指示する内容とか。
 その力が中心と繋がり一つであるか、その言葉が身体の延長にあるか、振り回したらぽろりと地面に落ちてしまうようなものでないか、よくよく確かめないといけない。
 自分自身の作り出したものをよく見よ。大体は、それが見られていない。

 何でもそうだけれど、写真を見たら写っているものを見るとか、演説を聞いたらその主張に是々非々で応じるとか、そういうのはド素人のやることである。
 かといって様式だのといった軽々しい話でもない。
 手とか脚とかそういうものはないのだから、一なのだけれど、それを見るのは非常に非常に難しいことだ。
 本当に見るのは本当に難しい。
 少し気の利いた切り口で何らかのフレームを持ってきて論じる、みたいなものの見方は大学受験小論文程度のもので、動作も状態も何も見えていない。
 一、しかない。

 まぁ、こういう作業の良いところは誰にもウケないでも十年一日の如くやっていけること。見世物は楽しいし好きだけれど、その根底に行がなければいけないと思う。
 誰にも見せずに書き溜めたものが山ほどあるけれど、それも死体と一緒に燃やしてもらえればいい。
 見せる時は殺す時。