先生の歴史を見る

 先生の言うことを真に受けてはいけません。
 とか言うと万国の先生に引っ叩かれそうですが、言葉の細かいところを見すぎると良くない、というのがまず一つ。これは当然。
 それからですね、言ってることとやってることが違う、というのもよくあります。
 人間、「まず大腿四頭筋を緊張させ股関節を15度に保って」とかいう風に身体を操縦している訳ではありませんから、なんとなくイメージで仙腸関節が!とか言ってても、それほんまに仙腸関節の話か、というのは別問題です。あくまで主観で話しているわけで、別に解剖学的に正しいことを言っているとは限りません。大体間違っていると思います。
 そして、そんな説明が正しい必要なんか一ミリもないのです。だって解剖学的とか物理的に正しい説明を聞いたとして、その通りに動く人間なんていないんですから。
 言ってることが全部間違ってても、やってることが正しければそれで良いのです。
 逆に、言ってることが正しくてもできなければ意味ないんですから。
 そのやってることを見る。
 言ってることは聞くけれど、対象の記述としてではなく主観、気分というのが大事。こっちだって主観で動くんだから、先生の主観が自分の主観で言うと何か、というのを感じないといけません。
 気分ですよ、気分。
 これは精神論じゃなくて本当に大事なんです。
 前にも書きましたが、人間、一遍に意識できることなんていくつもないのですから、バッと心身を決まったモードに入れるのに、気分というか、全体の絵みたいな感じをよく覚えて身体に馴染ませておくのは大事でしょう。グループ化して記録しておくというか。なんか、そういうのがあるんですよ。

 というお話が一つあるのですが、よく考えることとして、先生の今の指導だけでなく、やってきたことを真似しないとなぁ、というのがあります。
 自分自身についても、結構いろいろな所に鼻を突っ込んで教えを受けて、あれを導入してみよう、これを試してみよう、とあれこれやってきました。隠れてセミナー行ったり家で練習したりするでしょ?(笑)
 その上で取捨選択しているわけですから、今から振り返れば「あんな練習は無意味だった」とか「わたしが教えるならもっと合理的にやれる」とかあるわけです。
 多分先生も、そんな色々があって、自分なりの結論として今の指導法があるはずです。
 それはそれで勿論尊重しないといけないのですが、先生自身はそのメソッドで育っているとは限りません。色々やって、結果「俺の結論はこれだ!」とやってたりもするのです。
 で、それをなぞると先生ができあがる、と先生自身は思っているのかもしれませんが、多分できあがりません。
 回り道だと思っているものも、やっぱり要るものなんですよ。
 勿論、先生と弟子は違う人間ですから、同じことを同じようにやれば良いというものではないし、やったからといっても同じにはならないでしょう。
 ですから別に先生のやったことを何もかも真似しようとする必要はないし、先生が再婚してるから自分も、とかわけわかんないことやる必要はないのですが、でもまぁ、どういう経緯があって今のやり方になってるのかなぁ、というのは考えた方が良いと思います(でもそういう「何もかも真似する」というのも極めると凄いもので、知り合いの師範で仕草までその先生に似ている人がいるし、同じ飯を食べて薫陶を受ける、とうのはあると思います。先生の住んでいるマンションにわざわざ引っ越して同じ建物に住んだ人も知っています。それストーカーちゃうかとも思いますが)。
 何にでも歴史があって、表面に出ていないことにも意味があります。
 昔があって今がある。そういう重層的な感じを見た方が良いと思うのですね。

 でもその上で、自分なりのメソッドで人に教えたくなったりしますよねぇ。文化系限定でボディワーク的なものならやってみたいですねぇ。先輩とかには絶対見つからないように!(笑)