色々面倒臭いことの多い業界だし責任も持てないので、武術に関して流派のことは言わないようにします。
何かでこじれて、面子のためにやりたくもない喧嘩になったらたまらないですし。か弱いからね❤
本当は武術の話題自体控えた方が良いと思っています。でもついつい書いてしまう。ついつい喋ってしまう。その辺は本当に修行が足りません。
そういうのって、武術格闘技やってる以上、ある程度大切にすべきことだと思っていますし、あるところでサンボの先生が「ちょっと齧ったくらいで『サンボやってるんです』とか軽く言わないで貰いたい。言うなら責任持て」と仰っていましたが、その通りだと思います。「へ~、かっこいいね~、○○ってどうやるの?」って煽られたら「じゃあちょっと勉強させて頂きましょうか」くらい言えないといけないし、はっきり言ってわたしはそんなことしたくないし自信もないし自分が可愛いので、余程の覚悟がある時以外は滅多なことは口にしたくありません。
「昔○○やってたんだ~」とか軽く仰る方もいらっしゃいますし、まぁ単に思い出として語っているだけでどうこう言うことでもないかもわかりませんし、最初から留保を付けて謙虚に話すならわかりますけど、正直どうなんでしょうね。言った以上やってもらおうか、となったら「いやいやもう今はやってないんで」「もう歳なんで」で済ますんですかね。別にいいですけど、わたしの価値観だと相当カッコ悪いですけどね。他人事なんでどうでもいいですけど。
大体、世の中信じられないような化物が沢山いるんですから、調子に乗ったらいけません。すぐ調子に乗る性格なので日々自戒しております。
で、言いたいのはそこではなく、これもまぁ割と言われることではありますが、流派がどうかしたの、というのがあります。
わたしは根性なしの浮気者で、一度は完全にこの手のものと無縁になったので、結構色々なところを齧っています。武術じゃないこともやってるし、一人で研究していたこともあります。
今はあくまで所属団体の一員と自覚し末席でくすぶっていますが、わたし個人の中には色々な血が流れている。十年以上経ってから「あの時のあれは、これかッ!」と突然気づくこともあります。
特にうちは細かい技などはあまり拘泥せず、根本の身体運用を変えていくアプローチで、やってる人も大抵は経験者、人によっては指導者、出身もバラバラですから、各人で表現型が随分違います。組手なんか見てると「異種格闘技戦かッ」ってくらい、違うスタイルがぶつかったりして。わたし自身、うちの流派らしいやり方が自然に出るようになったのはまだ最近で、最初の頃なんか「○○でやっても勝てるわけがないんだから、昔やった☓☓を使う!」とか漫画みたいな幼稚なことを考えてコテンパンにされたりしていました(恥ずかしい…)。
技術の集合として流派を考えるなら、そんなのはつまらない話で、もちろん面子とか忠義という面はありますし、単体で技があっても良いのですが、根本のところは所詮手二本足二本の人間で、そう変わるはずがありません。
使える技と使えない技があるのではなく、技の使える身体と使えない身体があるだけなのですから。
わたしは全然、武術をやる人的な性格ではないし、ムサいノリも嫌いだし、武術を通じてお友達ができたことなんてないし、人前で跳んだり跳ねたり踊ったりしてきゃあきゃあしてる方が断然楽しいので、色々組み合わせて楽しい動作にして一人で踊ったりよくしているのですが、自由に動いてみると、根本の原理は今の流派でも、末端の動作は今までやった色々なものが自然に出てきます。
「ああ、これがこうつながるのか~」と今頃になって楽しみながら踊っています。
見せ芸としてやって面白いものってあるし、それはそれで良いことだとわたしは思っているので、そういうところは「使えない!」とか思ってたものを敢えて入れてみたり。
今は昔ですが、わたしが生まれるより前に大山総裁が「ダンス空手」というワードで伝統派を批判されていましたが(その意図は十全に汲みつつ)、わたしは別にダンスでもいいですよ。
誰も傷つけないし、見て楽しんで貰えるし、わたしも楽しいから。
そういうものも含めて、身体運用の訓練を第一義に思っています。
ただそれだけやってると、本当にダンスの人と変わらないし、身体論系の胡散臭い人たちと一緒にされたくないから、「じゃあ、実際やってみましょうか」という殺気を内に秘めていないといけないと思っています。できるだけ出したくないですけど。
わたしがダンスでも身体論でもなく武術としてやっている意味、時には実際に殴り合う意味は、それくらいしかないです。正直、痛い思いとかしたくないし。
ただ「そんなのないよね~」「我々はそんな低次元なことを越えているのだ」とかいう、身体論系とか一部ヨガとか何とか、それ系のふわ~としたノリが嫌いなだけで。「言うならまずわたしをぶっ倒してみせろよ」みたいな苛立ちがあるし。実際ぶっ倒されてみたりしてね(笑)。
能書きだけは立派な四十代(主婦)みたいのがカッコだけやられてもねぇ。「見てわからないのはあなたのレベルが低いから」とか、まぁ実際そういうことってありますけど、それはいいからまずはちょっと一本付き合ってよ、としか言えません。見るだけのもんじゃないからさ、幸い、武術なら。これがボディワークとかだと、別に殴り合わないでも許されるから話逸らされちゃうでしょ。
そんな綺麗なものじゃないでしょ。やってみればわかりますやん。人と向きあったら、びっくりするくらいでないし。デカイ奴には所詮なかなか太刀打ちできないし。人に対して堂々と出せないなら、それなんか意味あるの?とも思う。人前で晒される無様な姿こそ、本当のわたしだと、わたしは思いますけどね。
これってわたしの中では、ネトウヨはごめんだけど取り澄ましたリベサヨなんか同じくらい嫌い!というのと重なるんですけどね。
で、この身体は何かと言ったら、もちろん今の流派で学んだことが一番大きいのですが、根本としては「わたしの身体」でしかありません。そこに名前はありません。
「わたしはわたしだ!」ということになるのですが、その「わたし」を個性とか自我で考えていると、まったく役に立たない自家中毒にしかなりません。
そうではなく、大きな流れ、大きな力というものがあり、その一端、一表現型として「わたし」がある、ということが身体の奥から感じられる時、「わたしはわたし」なのです。
地球と一体化し地から足を通じ覇気が昇り髪の毛が逆立つような感覚というのが時折あって、そういう瞬間だけ語の真の意味で「わたしはわたし」です。
そういう感じだけを、暗闇で辿る綱のように大切に思っています。
他のことは、全然あてにならない。自信もない。正しいと思ったことがすぐに嘘だとわかる。
わたしの心なんて、わたしは全然信用していない。
流れとの一部としてのわたし、みたいのは、イージーに考えるとオカルトだし、頭使ってるうちは全部ウソだと思う。
バッと出してバチン!と人とぶつかって、ちゃんと吹っ飛ばせて、初めて証明できる。それができないなら、やっぱり勘違いでした、まだまだでした、ということにならないといけない。矢でも鉄砲でも持って来い!くらいの気持ちでいたら、あっさりミドルとかで倒されちゃったりしてね。あれ?ってなるでしょ。そこからが本番じゃないの。
口でガタガタ言っていても始まらない。
もちろんわたしなんかまだまだ全然できていないのですが、感覚というのはあって、それを細い命綱にして、少しずつ辿っているのです。
名前なんかどうでもいい。