「身に覚えのない」ことを変にわかろうとするから宇宙に行ってしまう

 「人生も同じです・・じゃない!」で、身体論系のお話から宇宙とかスピリチュアルに飛ぶことを書いたけれど、これについてもう少しお話しておきたいことがある。
 前の記事でも書いたけれど、ある種の事柄は直接目に見えないし、主観やら感覚やらで語る方が話が早い。ただし、それはある程度「わかってる」人同士でないと意味をなさない。
 以前にうちの師匠が「金メダルのヤツがどれだけ凄いかわかってるのは、銀メダルのヤツだ!」とおっしゃったことがあるのだけれど、フツーの人らが金メダルの人を見て「すげー」とか言っていても、何が凄いのかなんて一個もわかってない。それがわかるのは、自分自身の身体の中に対応があるもの、自身の感覚としてある程度まで感じられる人だけだ。
 人間、他人の動きや立ち方を見て何かを感じ取れるのは、自分自身の身体の中にあるものだけだ。「身に覚えがある」という表現があるけれど、「身」が覚えているものだけが、他人のものを見ても何がしかのものを感じ取ることができる。
 相手のやっていることのすべてが完璧にわからなくても良いけれど、ある程度のところまで「身」が覚えていなければ、いくら見ていても時間の無駄だ(そういう意味では、見取り稽古というのはある程度のレベルの人なければやるだけ無駄だと思う)。
 子供の頃、ゲームで遊ぼうとすると、画面の中のキャラクターの動きにあわせて自分もぴょんっとかビクッとか動いてしまうことがあった。そういう感じに、シンクロしてしまう性質が身体にはあって、多少なりともシンクロできるものだけが、他人の身体の中についても感じ取ることができる。

 そこまでは普通のお話なのだけれど、問題は「身に覚えがない」人らが、そういう語らいに接した時のことだ。
 「地面を掴んで持ち上げる」とか「肚で引き寄せる」とか、著しく大雑把で、かつ客観的ではない表現なので、「覚えがない」人が聞いても、何の話だかわかるわけがない。もとより、「覚えがある」人同士、あるいは、完璧ではないにせよある程度のレベルまで行っている人のための表現なのだ。
 それならそれで「まだわからんのやな」と思ってスルーしておけば良いのだけれど、なまじ使われている言葉自体が易しかったりすると、狭い自分の了見の中で解釈しようとしたりする。
 例えばこれが、物理学か何かの難しい話だったら、わからない時は素直に諦める。ウチも諦める。高校の物理もわからなかったし、これはウチにはちょっと難しいんやな、賢い子同士ならわかるんやろな、と離れて眺めていられる。
 ところが、身体の話などになると、身体というのは誰もが一人一個は持っているものだし、しかも自分の身体のことはよくわかっているつもりでいる。だから本当はちっとも「覚えがない」のだけれど、わかるような気になって聞いてしまう。「自分の身体のことを自分がわかっていないはずがない、そういう話ならワイにもわかるはずや!」という気持ちになってしまう。
 それで強引に解釈するものだから、どんどん変な話になっていく。
 よくある「気」の話なんかも、似たようなことではないかと思う。
 昔から「気」という言葉を使って表現されている事柄というのはあるけれど、それは単に言葉の使いよう、表現の仕方の問題であって、「気」そのものがバビューンとか飛んでいって相手を倒したりするわけじゃない。いや、世の中広いので、もしかしたらそういうのもチベットあたりにはあるのかもしれないけれど、普通はそういう話じゃない。今だったら大腰筋がどうとか、もう少し別の表現になっていたのかもしれないけれど、昔の人はそういう言葉遣いをしなかっただけの話だ。
 「気」という言葉を使って説明されているような現象がなにかあったとしても(実際、あると思う)、それはドラゴンボールみたいな「気」の塊が物理的にあったり、とかいう話じゃない。
 それを言うなら、「愛」という言葉を使って説明されている現象は紛れもなく存在するけれど、だからといって人間の身体を切り刻んで行ったら「愛」自体が物理的に取り出せるわけじゃない。脳のある種の活動とか、ホルモンか何かの値を取り出して「これが愛だ!」とかいうナイーヴな人が時々いるけれど、それは単に「愛」という言葉を使って語られる現象と、その生理現象との間に相関関係がある、というだけの話だ。「愛」は単に言葉であって、説明の方便にすぎない。
 この手のものは単なる言葉なのだから、その言葉で誰かが伝えようとした「何か」を見なければお話にならないのだけれど、その「何か」がある程度「身に覚えがある」人にしかわからないものだと、理解できない。それで諦めれば良いものを、無理やり言葉だけでこねくりまわすから、どんどん話がおかしくなる。果ては宇宙にスピリチュアルだ。
 「iTunesで曲名を変更するやり方」をiTunes初心者の人に説明するのは意味がある。でも、パソコンというものを生まれてから一度も見たことのない人にしても、まったく時間の無駄だ。物事には順番というものがある。パソコンを見たことのない人が「アイチューンズ」なるものをポワンポワーンと想像して色々理屈を作り出しても、それはファンタジーでしかない(いや、そのファンタジーはファンタジーとして、個人的には結構好きだし面白いと思うけれど、役には立たないし、本来の話とは全然違う)。

 これはちょっと、「自転車置き場の色」問題に似ている。
 今調べたら、「パーキンソンの凡俗法則」というらしいけれど、要するに原子炉の建設計画のような難しい話の時は、素人は「自分にはわからない」と思って黙っているのだけれど、「自転車置き場の色」のようなどうでもいい話題になった途端、皆が口をはさみ始める、というヤツだ。会議で、どうでもいい議題に限って議論が紛糾しダラダラ長引く、あの現象だ。
 いや、自転車置き場の色についてなら、素人なりに何か述べたって罪ではないのかもしれないけれど、「身に覚えのない」ことをグダグダ言葉だけこねくりかえしても時間の無駄だ。宇宙に行ってしまう。
 稽古や練習の過程である程度言葉のやり取りがあってもいいけれど、あくまで普通に練習して一定のレベルに達している前提だし、また言葉にかける時間も最小限におさえた方が良いと思う。
 わからなければ変にわかろうとせずにとりあえず置いておいて、手帳にでも書いて十年くらい経ってから見なおしたらいい。