虫姫様とデートできた。
随分色々なことを喋った気がするけれど、わたしはテンパると際限もなく自分のことを喋ってしまったりするどうしようもない人間なので、肝心のメレ子さんの話をちゃんと聞けていない気がする。すいません。いやほんとすいません。
個人的な話や裏話的なものでは面白いことを色々聞いてしまったけれど、それはちょっと書けない。
ちゃんとした人だろうな、と思っていたら、ちゃんとした人だった。ちょっと想像以上にちゃんとしていた。ウチがちゃんとしていなさすぎるのだろうか。
わたしはちゃんとした人を前にするととても緊張してしまうし、あと小さい人にも結構緊張する。ガサツなので、何か乱暴な行動をして傷つけてしまうのではないか、と不安になるのだ。
でも普通、ちゃんとした人はクズより強いもので、あと多分小さい人も結構強い。わたしが勝てるのは相撲くらいだ。
思ったより淡々としているというか、クールに自分やそれに対する反応を見ているのだなぁ、と思った。
そうでなければ言及される立場というのはメンタル的にもたないのではないかと思うのだけれど。
あと可愛い。この上の写真の感じや角度は特に可愛いな、と思った。
蚕の幼虫くらい可愛い。
というわけで、一緒に中島由佳さんの写真を見に行く。FUGU。
ひょんなことから「フグばかり撮っている人」を知り、以前に某所で見て大変良かったので、個展も見に行った。
わたしとしてはこの水槽の傷の感じとかがとても良いと思っているのだけれど、多分本人はフグ自体にこだわっている。
本人も結構インパクトの強い人だった。
なんとなく、まだまだ全然ポテンシャルを出し切っていない感じがする。あの感じは、もっと色々やってくれるオーラだ。はっちゃけて欲しい。
びっくりして道路に飛び出してしまいそうな感じの人だ。いや全然そんなことないのかな。妄想かもしれない。飛び出さないように気をつけて欲しい。ウチも気をつける。
それからメレ子さんに教えてもらって増山たづ子さんの写真を見る。
ダムに沈んだ徳山村で、故郷を撮り続けたおばあちゃん。
フィルムのペタッとした発色が素晴らしい。
分厚い昭和感に押しつぶされそうになるが、よく考えれば昭和なんてまだ二十数年前で、わたしだって昭和生まれだ。
写真を眺めていると「古き良き日本」みたいに映るけれど、もうわたしが生まれている時代の話で、そんなに昔のことじゃない。いや、昔か。わたしが歳をとっただけとも言える。
でもまぁ、二十年三十年なんて、ほんの一瞬のような時の筈で、撮った人が遥か年上で、舞台が山村であることを勘定に入れても、そんなに遠い日本でもない。
普通に言えば、それだけ世の中ものすごい勢いで変わっているということになるのだろうけれど、世の中以前に、わたしたちがびっくりするほど狭い地理的時間的スケールで生きているということだろう。
よく、伝統の名のもとに喧伝されていることがせいぜいニ三世代程度の歴史かなかった、というお話があるけれど、その程度で全然遠い昔になってしまう。
わたしたちは自分で思っているよりずっと小さいし、すぐ忘れてしまう。
問題は、忘れてしまうということすら忘れてしまった、ということだ。
多分それは、書記が当たり前の世界が完結したことのためで、口承が基本だった時代には、まだわたしたちは、忘れっぽいということくらいは覚えていたのだと思う。忘れっぽいから、結構頑張って言い伝えたりしていた。
今はもう、忘れることすら気にしない。忘れても誰かが覚えてくれている。
いや、実のところ、覚えているのは常に「誰か」なのだけれど、その「誰か」についてわたしたちは問うているのか。
これは結構大切で面白いところなのだけれど、ほとんどの人はそういうことに興味がない。
これは増山さんの写真を眺めていてもう一つ気になったことと繋がっている。
それは被写体となった人たちの親しげな表情ということで、単純にそれは、カメラマンが実際彼らと親しい人だったからだ。
カメラという機械は、わたしたちを安全で抽象的な視点へと消失させるような錯覚を産むし、実際、そのような気分がカメラの快楽の一源泉でもある。
しかし実際は、カメラを持つ人は常に状況に参加しているし、徳山村の写真にしたところで、まったくのよそ者が突然村にやって来て写真を撮っても、同じ写真など撮れはしなかった。
ベタなことを言えば、このことからラカンの眼差しを連想せずにはいられない。
眼差しをパースペクティヴの消失点のような消え去る抽象的な視座として捉えようとするサルトルに対し、ラカンは眼差しは「目に見える」と言う。
眼差しは見ることに先行する。
わたし自身が見ることはなく、視覚すら備えていなかったとしても、見る以前に見られる者として、わたしたちは眼差しという対象に取り込まれている。蝶の羽に浮かび上がる視線のような紋様のように。それが何であるか知らないまま、あるいはそこに何かがあると知らないまま、背負っている蝶は、見る以前に見られる者として、目に見える眼差しを視線の元に晒している。
そして、そこに何かがあると「知って」いるのは誰なのか?
端的に言えば、「誰か」と問える場自体がsubjectを養っているわけだけれど、このことは、わたしたちが忘れてしまうことを覚えてくれている「誰か」と通底している。
カメラマンは、カメラの背後に隠れたような気分になるかもしれないが、実際のところ、カメラの単眼は人の視線以上にギラリと反射するものとして際立ち、時に攻撃的にも捉えられる。
カメラマンは隠れたかもしれないが、別の紋様が場に浮かび上がっている。
その時、わたしならざるものとして眼差している者こそ、実のところsubjectなわけだけれど、それはまったく「下に投げ出され」たもので、ドキュメンタリやゲリラ撮影で一番最初に殴られるのも大抵カメラマンだ(機材が重くて逃げられないのもある)。
誰が隠れ、誰が「代わりに」いるのか。