「世の中には色々な人がいて、共存しなくてはいけないから、お互いに理解を深めていきましょう」的なことが言われることがある。
あるいは、ある受け入れがたい価値観や行いに対して「理解できない!」という反応がある。
こうした言い回しを眺めるたびに、何か釈然としない気持ちになる。そこで問題になっているのは「理解」なのかしらん。
世の中に色んな人がいて、ぶっ殺すわけにもいかん、というなら、確かになんとかやっていくしかないのだけれど、別に相手の価値観やら何やらを「理解」しなければいけないわけではない。よく分からない、理解できない、そのままで結構なので、とりあえずぶっ殺さなければいいはずだ。
しばしば指摘されるように、「理解できない!」という人は要するに「嫌い!」と言いたいだけなのだけれど、「嫌い!」と言ってしまうといかにもキカンボウっぽくて説得力がないし、「生理的に受け付けない!」とか言うと女叩き勢にフルボッコにされるので、「理解できない!」「理解に苦しむ!」と言っているのだろう。まぁそれは大人の婉曲表現ということで分からなくもない。
気になることの「その一」は、なぜそこで婉曲表現として「理解」が出てくるのだろう、ということだ。大して意味はないのかもしれないけれど、やはり「わかる」ということには矛を収めさせる何かがある。理不尽に対する怒りと楽をしたい一心で書いたけれど、「筋が通っている」というのは要するに楽ができる、処理が簡単になる、ということだ。「わかる」というのは、何か筋が発見できる、ごちゃごちゃした具象の集まりの中に抽象的な法則を見つけることができ、それで多少なりとも一網打尽にできる、ということで、そうすれば脳みそのメモリを節約できて楽ちんだ、ということだ。楽というのは大変素晴らしいものなので、楽をできると「まぁ許してやろう」という気持ちになるのは尤もなことかと思う。
そういう意味では、例えばマイノリティの問題だとかで「理解を求める」「理解をすすめる」という表現がされているのも、多少は納得できなくもない。ことの本質がわからなくても、それにまつわるエトセトラの情報が増えてくると、その中には了解できるものもあり、了解できれば今までの経験で得た法則を適用できたりして、脳みそが楽をできる。人間、一つ楽をできるところを見つけるとドドッとそこに気持ちが向く。わからないところは依然わからないままなのに、わかることを一個見つけるとそこに気を取られてなんか楽できてる気持ちになる。楽をできると嬉しい。嬉しいとちょっと変なヤツがいても、「今日は殴らないでおこう」という気持ちになるかもしれない。
ただ、ここで気になる「そのニ」は、そうやって理解できる世界というのが延々と続いていくようなイメージを抱いてしまうことの恐ろしさ、ということだ。本当のところ、世の中のほとんどは分からないのだ。分からないのが当たり前なのだ。でも分からないと不安なので、例えば学者先生とかはわかっているはず、と思おうとする。自分はわからなくても、わかっている人が誰かいるはずで、今の科学ではわからなくても、いずれわかるはずなんだ!という期待。特に科学と言われているこのものは、本来は常に反証可能性を抱えながら仮説を積み上げていくところにその有効性があるわけで、こうやって神格化されて「知っている者」を仮託されてしまうことには、色々なキケンがある。
そして「わかる」「(誰かがいつかは)わかるはず」な世界観に慣れていると、本当に荒野のリアルな世界に触れた時、必要以上にアワアワしてしまう。こんなに脳みそ使う楽できない世界はケシカラン、ぶっ殺す!という気持ちになる。「わかる」ことに慣れているから「わからない」ことに過剰に反応してしまう。「解明されうる世界」が光のように広がっていく世界観には、そういう危うさがある。「理解を求めていきましょう」的な、啓蒙の光が広がり皆んな仲良くわかって平和な感じには、どうもこういう危ういユートピア的な世界観があるように見える。
でも、そもそも「わかる」ことが良いのは、楽ができるからだ。楽ということが一番なのだ。だとすれば、「わかる」以外にも楽をする方法というのはあって、それは諦めてしまうことだ。もうすっかり諦めて全然無理、「そういう日もあるよね」的に受け流す態度というのは、具象のごちゃごちゃをごちゃごちゃのままに受け止める、というより受け止めすらしないで流しているので、特に脳みそが大変になることはない。右から左に抜けていってすぐ忘れてしまう。そういうのは、「わかる」とか「筋が通っている」のと同じくらい楽できることで、しかも簡単だ。
人類の歴史のほとんどにおいて、大多数の人間はこの「諦める」メソッドを使って生きてきたはずだ。考えてもしょうがないから諦める。とりあえず寝て明日にしよう。と思っている間に忘れる。そうこうしているうちに年をとって死ぬ。これは楽だ。
問題としては、このメソッドはことの本質を何一つ解決していないので、状況が改善することは(偶然以外)ない。進歩とか発展とかいうことの180度反対のところにある。
でも、世の中、どんなに頑張ってもどうにもならないことは沢山あるので、そういうものはさっさと諦めてしまった方がいい。昔の人はパソコンとかルンバとかそういう便利なスーパーパワーはなかったので、頑張ってなんとかできることが少なかった。今でも貧乏な人には少ない。そういう人は、変に頑張るより諦めた方が楽だ。これはまったく合理的な判断なのだ。
「理解できない!」と言いたくなるようなムカムカする(楽ができない)状況に遭遇したら、まぁなんか屁理屈を付けて「わかる」のも楽だけれど、もう全然諦めて「なんかいるよねー、あ、ほうれん草安い」くらいの諦めができると大変良い。ただ、上で書いた通り、今の世の中は変に「わかる」ことが進歩の証的なムードがあって、皆んな「わかる」ことに慣れている。少なくとも、自分がわからなくても誰かはわかる、いつかはわかる的な雰囲気にどっぷり使ってしまっている。本当はエライ学者先生だって大したことはわかってないのだけど、「ほんとはわかってねーくせに知ったかすんなハゲ」とか言うと殴られる。これは非常に楽しにくい面倒くさいことで、もうちょっと皆んな諦める練習をしておいた方がいい。諦めるのも、慣れてないと簡単なものではない。ハゲとかいうと殴られるので、黙ってこっそり同時多発ゲリラ的に諦めた方がいい。
で、もうちょっとだけ話が続く。
「理解できない!」とか「理解を求める」が(楽をさせろ的な)多少故無きこともないくらいの婉曲表現だとして、ぶっちゃけ「好き」とか「嫌い」の話だとして、嫌いだからといって、なぜ即「ぶっ殺す」になるのか、というお話がある。
夫婦別姓とか同性婚の問題だと、夫婦別姓を選択する人がこの世の中にいたところで自分自身は同姓を選択することも可能なのに、反対する人たちがいる。他にオプションができるだけで、既存の選択肢自体は何も変化がないのに、反対する人たちだ。
この人たちはこの人たちで、「日本の伝統が」とか、世の中が乱れる的な話をして理屈をつけるのだけれど、そういう伝統に限って60年くらいしか歴史がなかったりして、どう考えても後付けの屁理屈にすぎないことが多い。
こういうのを見ると「自分が何も損しないのにつまらない屁理屈で反対する低能なクソ!」と批判する人たちがいて、まぁわたしも正直そういう気持ちはするのだけれど、それなりの数の人たちがこうやってギャースカ言っているわけだから、この人たちはこの人たちで、それなりに理合というものがあるんじゃないかと思う。
ぶっちゃけ言えば、これは「楽をしたい!」対「楽をしたい!」の戦いなのだ。
夫婦別姓で「楽をしたい!」人たちがいる一方、人間の「今やってる以上のことはやりたくない」「今までのやり方を変えたくない」欲は大変強いもので、なんだかちょっとでも新しいものが世の中に出てくるのは自分の楽ちんを脅かされそうでキケンキケン、という人たちがいる。楽をするのは大変素晴らしいことなので、どっちも大体素晴らしい。大体、夫婦別姓だって「今までずっと使ってきた姓を今更変えるなんてめんどくせー」ということだし、わたしも面倒くさいと思うので、まぁ大体言ってることは同じようなもんなんじゃないかと思う。楽をするための方法として、よりスマートなやり方と泥臭いやり方がある程度で、楽をしたい一心では五十歩百歩、人類みな兄弟だから仲良くした方がいい。
いや、なんか話がズレた。ぶっちゃけすぎた。
これもよく言われることではあるけれど、人間、多少なりとも自分の帰属している(と信じる)集団、正確に言えばその集合それ自体を指す項目、象徴的なものに対して切っても切れないような気持ちというのがあって、それがちょっと傷つけられるだけでも大変なダメージを負う、ということはあるものだ。国家とか宗教とかファミリーの名誉とか、大げさに言えばそんなものだけれど、人間は常に社会的=宗教的存在なので、そんなものはどこにでもあって、アイドルに彼氏がいて傷つく人もいれば、俳優が結婚して泣く人もいる。そういう帰属(してる気分)関係というのはクソ複雑に絡み合っているので、なかなか「うちはうち、よそはよそ」みたいにスッパリいかない。
日本の国家みたいなものにちっともアイデンティファイしてる気がない人でも、たとえば沖縄の人たちが「いや、本土の人がやることにはケチはつけませんよ。でもウチらはウチらのやり方でやりますから」的に独立してしまったりしたら、埼玉県に住んでててもなんかちょっと不安な気持ちにくらいはなるんじゃないかと思う。そんな調子で岩手県とか岐阜県とかが独立しちゃったり、こしあん派とつぶあん派で分かれて住みましょう的な話になったりしたら、オイオイなんかやばいんじゃないの、くらいにはなるだろう。独立だの何だのになると、それは国益的なものに関わるから「よそはよそ」ではいかないわ、と思うかもしれないけれど、大多数の人はそんなクソ難しそうな話はわからなくて、なんかとにかく新しいよくわからないものが始まって、自分が属している(と信じている)ものがグラグラきそうなのが何となく不安なだけだ。
あとはアレ、どうでもいい議題に限って会議が紛糾する、というアレで、人間、よくわからん高級で大事そうなことには手を出さないでおくけれど、自転車置場の屋根の改修とかそんな話になると、せっかく一票持ってるんだからなんか言わないと損、みたいのもあるんだろうね。夫婦別姓の話で言えば、もう結婚しちゃって姓も一つにしちゃった人たちにとっては、今更別姓だろうが同姓だろうが得することはないわけで、じゃあ一票分意味もなくゴネておくとなんかパワー発揮した感がして嬉しいジャン的なものがあるのかもしれない。これはセコいけど、気持ちはわかる。
ウチ自身は夫婦別姓なんか認めたらええやないか、と思ってるけれど、「どうせお前損しねーんだから黙ってこっちにハンコ押しといてくれよ!」的に言われたらなんかムカッとはするわな。ちょっと一つゴネてやって、愛想笑いの一つくらい引き出してやるか、って気持ちにはなるよ。現在の制度で問題ない人からしたら、自分は損しないで向こうは得する可能性があって、そんな取引でなんで偉そうにされなアカンねん、って思うやろ。これはアレやな、今夫婦別姓に賛成したら姓一個プレゼント!くらいやってもええんちゃうかね。いらんかね。そうかね。
ことわっておくけれど、ここで国益がどうとか、日本の将来がどうとか、新たな子育て世代がどうとか、そんな大きなこと言ったってダメなのよ。いや、全然ダメなわけじゃない。一応、言っておいた方がいいけれど、そういうのが響くのってそれなりに賢くて余裕があって、ものごと考えられる人だけだからね。大概の人間は、もう、もんすげー小さい損得勘定で生きていて、今やってることなんか一個も変えたくないんだから、それはもうどうしようもない。プリンあげるから賛成して、とか、それくらいのスケールでいかないといけない。
で、特に結論はなくてウチなんかがいくら考えても良いアイデアなんか出るわけねーのだけれど、これもまた「世の中わかるはず!」的な前提が非常に胡散臭いというか、色々邪魔しているように思う。この世は一寸先は闇でわからないことだらけで、頼りになるのは神様だけだ、と思ってみれば、ちょっと姓が違うとかそれくらいのことはどうでもいい気がしてくるような気もしないでもないけど、そんなことないかね。
もう諦めて試合終了ッスよ。帰ってスマブラやろーぜ。