一致するためにやっている

 もう当たり前のことなのですが、勝つとか負けるとかそういう話ではないわけですよ。
 もちろん、やることに意義があるとか努力賞とかそういう話でも全然ない。
 勝つとか負けるとか、なんですか。相手が自分より強ければ負ける。弱ければ勝つ。相対的なものです。
 それはもちろん、勝つように稽古するわけですが、とにかく勝つのが目的ならば弱いヤツとしかやらなければよろしい。もっと言えば一切やらなければよろしい。これはもう、万が一にも負けることはありません。
 そういう次元のことなど全然やっていないし、そんなものの見方、わかりの良さみたいなものが、吐きそうなほど気持ち悪いわけです。
 台風が通り過ぎて、スズメがねぐらの木の下で大量に死んでいる。そんな風に死にたい、あるいは生きたい。
 スズメというのはどうですか、小さくて弱い生き物だと思っておられるかもわかりませんが、三次元で自由自在に宙を飛ぶ。あれを手で捕まえられますか。無理でしょう。わたしの先輩に鳩を手づかみできる人がいますが、スズメは無理だと思います。仮にできてもカラスは無理でしょう。カラスというのは、わたしは五年くらい、あいつを何とか素手で捕まえて殺せないかとスキを狙っているのですが、もうまったく全然捕まりません。石つぶて一個くらい使っても、これが当たらない。ピッチャーノーコン。仮に多少、コントロールがよろしくても、あれはなかなか容易ではありません。
 ちなみにもし狙うとしたら、飛び立った瞬間、もしくは着地の直前ですね。そういう瞬間にスキができるというより、心に偏りが生まれる。そういう時があります。格闘技で言うところの「離れ際」ってやつですね。そういう時、心が偏る。心が偏ると身体も偏る。ここを打たれると、スッともらってしまったりするのです。割りと見えていますね。あっあっあっとか思ってるのに、貰う。逆に言えば、そういう時を狙って打てば、割合に当たるものです。ですが相手がカラスですからね。狙おうがどうしようが当たるものではありません。
 あの強いカラスだって、死ぬわけです。カラスは死ぬと消えるというのは矢追純一が言っていた話で、それが証拠にカラスの死体を見たことがありますか、とお話されていましたが、わたしは何度も見たことがあります。鳩もカラスもスズメも他の鳥も何度もある。落鳥と言います。見たことがないのは見ようとしていないから。鳥に興味をもってよく歩いていれば、あちこちに落ちて死んでいます。
 そういう風にカラスが死ぬ。スズメだって、たかだか台風の雨風くらいで百羽くらい一網打尽にされてしまう。見事な死に際だったと思います。
 死に際が見事というのは、それまでだって生き際というか、生きる方は際とは言いませんが、あるべくしてある、という風に生きているのです。
 それはあるがままとか自然とかいうこととは全然違って、ある種義務を果たしているというか、ナニクソ、と思ってやるからそうなるのです。スズメがナニクソと思うかと、そんな風におっしゃるかもしれませんが、思います。思っていますね。そういう風に生きて、神様を讃え、戦って死ぬのです。それでやっと、あの死に際です。
 そういうものの探求として、行というものがあり、術というものがある。芸事とはこれ、すべからくそういうものです。この「すべからく」の用法は誤用らしいですが、響きが良いので使います。
 死に際だの死に方だの生き様だのというお話をすると、精神論だか気持ちの問題だか、そんな風に誤解されるのですが、全然違います。気持ちというのは身体から来るもので、身体には状態というものがあり、この状態を極めることで心ができるのです。
 状態とはなんですか。システムというか、系みたいなものです。この系が大雑把に二通りあって、人間の身体は両方使えるのですが、片一方は大概の人が使っていない。オカルトっぽいですね。だからこの、二通りというのはちょっと模式的なお話で、実際はもう少し曖昧。でも言葉の世界とそうでない世界がある。両方はパキッと二つにわかれているわけではなくて交わっているのですが、こう、直行でもない。ただ並行でもない。
 ある状態に身体を入れられれば、それはもう、死んで生きるというか、色々関係なくなるのです。
 そこから出てきた言葉が言葉の世界で正しかろうが間違っていようが関係ありません。正確には言葉の世界じゃないですね。その辺のボンクラが、言葉が世界を映しているという前提で語っている世界、そのようなものと符号するとかしないとか、そういう話。これはまったく、どうでもいいことです。
 一致するためにやっている。