最近の対話:象徴秩序への位置づけと自意識、統計学的超自我、写真と説明とか

 最近は土曜日が朝稽古、大荷物を背負って神社仏閣の業務写真を撮りつつ他の写真、夜ワークショップという流れが多いけれど、とにかくこの大荷物が半端ではない。
 普段でも化粧ポーチやら本やら荷物が多い人なのに、着替え一式に加えカメラ、パソコンまで持っていくと凄い重量。これをかついで三時間歩くというのはなかなか骨が折れる。
 日曜日はグッと軽装備で二人で行動することが多いのだけれど、まったく楽しさが違う。
 特にこのところ土曜日は都心オシャレエリア、日曜日は郊外や下町を巡ることが多いので、土日の温度差が激しい。

 ダー氏と先日浅草を歩きながら「浅草はいいよねぇ、良い壁がたくさんある」とか話していたけれど、この会話が成り立つ関係が異様と言えば異様。良い壁ってなんだ。

 綾瀬のタリーズで対談みたいに話が盛り上がった。録音しておけばよかった。
 発達障害的なルールの絶対視と前提の不問、従わない人間は排除されて当然という感覚、が話題になり、『コンビニ人間』があがるが、「それは現代の新しさというよりも前近代への回帰では」との反論。アチェベ『崩れゆく絆』のオコンクォにとっても、ルールは絶対自明であり、何を根拠に決められたのか、という疑問が生じる余地がない。ただ、オコンクォにとってのルールは擬人化されている。大地の精霊が「怒る」とか。それに対して現代のルールは非人称的、無機質なものになっている。
 擬人化というか、ヒトの世界とそれ以外が地続きであり、外部性が担保されているのではないかと思う。現代的文脈では外部が(抑圧ではなく)排除されている。

 拙作で扱った「わたし」の存在が象徴秩序のなかでどのように位置付けられるか、というような問題は時代遅れなのではないか、という問い。現代の人間はもっと昆虫的では。自意識に思い悩むということは現代の若者にもあるのか。一般大衆は今も昔もそんなものと言えるのか。『スクラップアンドビルド』の主人公などは、自意識過剰で、悩んでいたといえるのでは。筋トレしてるおれかっこいいとか。しかしあまり内省的な悩みとはいえないかも。
 しかし自意識と象徴秩序への位置づけはイコールではないし、前者は後者の後の問題ではないかとも思う。後者はほとんど「わたし」の存立の問題であり、言葉とモノの関係の次元に位置している。前者はそうしたイマジネールな「わたし」が一応同定されて、その上で「内面」がドライブするだけのこと。問題系としては矮小である。

 統計学的超自我の問題。「ファイトクラブ」の主人公は保険会社の従業員で、人の生死を数値化して扱う仕事。それに対するカウンターとして暴力の魅力が描かれていた。小説も映画も90年代の作品。今はもう古いのか。
 今現在も統計学的超自我に対する鬱憤とか息苦しさは存在するけれど、既に「残忍な超自我ネイティヴ」と言える世代が育っている。彼らは息苦しさに既に適応している。一方で適応し切れない者も、レイシズムのような、さらなる外部の排除、という形で融通の効かないアルゴリズム的超自我の振る舞いを反復してしまっている。
 アルゴリズム支配はずっと進行していて、局所的暴力といったファンタジーでは既に陳腐化しているし、むしろ適応している側、知らずに慣れてしまっている側の視点が必要なのではないかと思う。

 吉田写真展「月の街」。説明があって社会的文脈に位置付けられて面白い写真。写真にウソのキャプションを付けるのはどうか?
 米田知子に、歴史的な事件のあった場所(現在はなんでもない場所)を撮影して、キャプションでそれを説明してるシリーズがある。
 アラーキーがやってるのは、コンパクトカメラで写真に日付を焼き込むんだけど、それがウソの日付になってるの。
 これはまぁ、割とよくある話題。作品と作品背景の関係。
 ちゃんと説明したくなる、ちゃんと知りたくなる、という欲があって、それに無防備にまかせてしまうのは作品の圧力を下げると思う。説明するならする、しないならしない、で自覚的である必要がある。単に説明しない、というのはたぶん難しくて、だから代わりに嘘を立ててみる、という戦略を考えた。が、たぶんもう誰かやっているだろう。
 説明するのは写真の仕事ではないとも思う。一つの展示でごちゃごちゃ説明的に入れ込むのはどうかな、と考えている。