ラリーと立ち会いということを考える。
 「殴り合い」などと簡単にイメージで言うけれど、延々とパンチの応酬が続くという展開は、その辺の道端ではあまり見たことがない。大抵はかなり早い段階で均衡が崩れ、一方的にボコボコにする展開になるか、掴み合いのぐちゃぐちゃした形になる。つまり、ラリーにはならない。
 カンフー映画やマンガのような丁々発止の打ち合いは、人のイメージの中にはあるけれど、実際には滅多と出現するものではないだろう。どこか社会的というか、人の間の物語でしかない。
 一方で、競技としての格闘技なら、ある程度そういうこともあり得る。というより、あり得るように、力が均衡するようにルール等の条件を整備している。凄惨で一方的な暴力など普通の人は見たくないし、スポーツとしてやる意味もない。スポーツは人の間にある。
 そうしたものが「実戦的ではない」などと揶揄する向きもかつてはあったが、枠を作ってイメージの中に収めようとする性質自体が人にはあるわけで、殺人マシーンのような人間像の方がよほど人工的だ。そういう一面もありはするだろうが、すべてではない。
 また、枠を作って限定するからこそ、技術が発展する。近代科学とはそういうものだ。部分だけを見て、系を限定するから進歩する。
 ボクシングが現実的かというと、そうではないだろう。大体同じくらいの体重の上半身裸の人間が二人出てきて一対一で武器を使わずグローブをしたナックルだけで戦う、ローブローは禁止、とか、およそ現実的ではない。しかしだからこそラリーが成立するし、技術が進歩するし、研鑽するに足りる何かになるし、人が見る値打ちもある。
 以前、戦う編集長の山田英司さんが「キックボクシングは実戦的ではないから素晴らしい」と発言し、その意図を理解しない人から批判されたらしいが、言っていることは非常に正しいと思う。
 もうちょっと「実戦」寄りに考えると、それは立ち会い的なものになる。バババッと一瞬の交錯で終わる。相撲が一番近いのではないか。本来、武術的なものは立ち会いで考えるものだと思う。
 ラリーと立ち会い、どちらも一つの形であるけれど、ラリーは実験室環境で系を限局し圧力を高めるもの、一方で立ち会いは時間的な延長を限定し、瞬間の中で圧力を高める。
 圧力を維持するための二つの異なるアプローチではないかと思う。常に矛盾するとも言えないし、ライトスパー的な練習と、伝統空手の組手的な練習と、両方やって悪いということもないだろう(しかしリズムが違うし、リズム自体を悪しとする武術勢からすれば前者はNGかもしれない)。
 立ち会い的な稽古を主とする武術であっても、時間的に長い延長を持つラリー的な稽古法を別に持つ場合は数多いだろう。中国武術の推手などはラリー的だ。
 立ち会いは一瞬で終わってしまうし、一定の素地ができていないとなかなか成り立たない。だからラリー的なもの、実験室的なものを並置して練習したのだろう。
 もちろん、ラリー的なものも、ある程度の基礎と「なんのための練習か」という意識がなければ成り立たない。かつては空気で読むものだったが、どんどん馬鹿でも分かるようにルール的なものに開かれていった。それで良くなるところも悪くなるところもある。
 まったくの個人的趣味としては、武術とは立ち会い的なものだと思っているが、しかし、ラリー的なものは実に役に立つし、またラリーが成り立つ関係は素晴らしい。お互いがお互いに潰し合わないよう、傷つけすぎないよう、目的意識をもって向き合う。一方的に叩きのめすことを目指しての稽古だったはずが、いつの間にか互いを思いやる関係を知る。正反対のものがぐるっと回って地続きになっている。その辺が面白いと思う。(思いやるのは内の者だけで他は知らん、というのもあるだろうが)

よしこ画伯

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