調子の良い時のことを覚えておいて調子の悪い時に同じやり方をしようとしてもうまくいかない

 わたしは非常にムラっ気のある人間で、そういう性格のせいか、身体の繋がりも悪い時はとにかく悪くて、どう頑張ってもバチッといかないのです。
 マックスを上げるというより、アベレージで良い時の状態に持っていきたいのですが、これがなかなかままならない。
 一体何がキーになっているのかさっぱりわからず、色んな稽古法を試し、果てはヨガやら気功やら整体やら食べ物まで工夫してみたわけですが、なかなか良くなりません。ふて寝するしかありません。
 調子の悪い時に頑張りすぎてもいけないのですが、かといって何もしないでも良くないし、まぁそういう時は筋トレでもやっとくのが良いかもしれません。

 で、この調子の悪い時のどうにもならなさをなんとかするように、調子が良い時のことを覚えておこうとするわけです。
 師匠にも「何が起点になってどう伝わっていくのか、細かく見るんだ!」と言われていますし。
 それで覚えておいて再現しようとするわけですが、まぁうまく行かないものです。調子の良い時はもう、生まれた時からできるみたいにできますからね。

 話が飛ぶようですが、わたしは割と腹を始点にする感覚があって、調子が良い時はその感じで動けるのです。実際腹から出ているわけですし。
 師匠はいつも思いつきみたいな切り口をパッと言ってサッとどこかに行ってしまう人なのですが、先日腰背部に発して背と一体化した腕についてサラッとお話されていったのです。
 具体的な技術のことは詳述しませんが、まぁ内容だけならこちらもわかってはいることです。同じものの別の表現みたいのを伝えていくのですね。
 腕を上げた状態で一体化していて、一つであるならどこが起点でも良いのだから、腕でなくて腰背から発してみて、今度は腕を下げて一気に腰背からやってみる、みたいな。
 で、まぁ、わかってはいることなのですが、言われたことなのでとりあえずやるわけです。
 するとこう、スッと行くのですね。
 この日は調子が悪くてどうしようもなかったのですが、あれ?という感じで、ちょっと感覚が変わるわけです。
 何が言いたいかと言うと、調子の良い時のことを覚えておいて調子の悪い時に同じやり方をしようとしても、なかなかうまくいかない。
 調子の悪い時には調子の悪い時のやり方がある。というか、単に全然別の切り口でやってみる、ということかもしれません。

 切り口が違うだけで、実体は一つだと思うんですよ。
 ただ抑えるべき要諦というのは無数にある一方、人は一度に意識できることって二つとか三つとか、その程度です。それより多くなると、一個抑えると一個忘れるみたいになります。
 まして相手がいて瞬間の判断で考えないで動こうとしたら、「あれやってこれやって」なんてやってる暇はありません。
 だから練習で少しずつ少しずつ練っていく訳ですが、一人でやっていたって一遍にはできるものではないのです。
 見るポイントなんてのは切り口の問題であって、実体に繋がる経路というのは無数にある筈です。

 そもそもの話をすれば、どこか起点とかそんなものも、うまく行ってしまえば関係ないのです。
 以前に師匠が「腕とか足とか、そんなもんはねぇんだ!」と仰っていたのですが、そういうことです。腕とか足とか、そんなものはありません。
 体全体が一つのゴムの塊みたいにならなければいけないのですから。
 ですから切り口とか始点とかそんなものは意識のレベルの話で、大した問題じゃないのです。
 でもわたしたちは意識からも逃げられませんし、特に練習の時は意識してやらなければ前に進みません。
 その意識も、調子の良い時と悪い時で、有効なポイントが違うのではないか、というお話です。

 うまくいかない時に腹にこだわると腹の自由度が下がってかえって固くなるのですね。
 特にわたしはムキになる性格なので、こだわって無駄な力が入ってうまくいかなくて、また更にムキーッとなって力んでしまう、という悪循環に陥りがちです。
 逆に腰背に意識がありすぎると、わたし個人の場合ですが、腰に負担がかかりすぎることがあります。実際調子に乗って何度も腰を痛めていますから。
 そんな感じに、良い時と悪い時で分けてみるのも一つの手かと思います。

 自分の身体の中で何が起こっているのか細かく丁寧に見ていく、というのは非常に重要なことで、これを大雑把にやったり「今イイ感じだからいいや」とか「大体こんなもんしょ」みたいな調子でやっていると、そこから全然進歩しません(半分自分に言っていますが)。
 それは間違いないのですが、その着眼点とか力の辿り方みたいなものを、何パターンか持っておくと、「こっちでダメならあっちで」みたいな使い分けができるかな、と思いました。

 あと、これはまったく余談なのですが、意識できるポイントが限られている、というのは大事なところで、特に組手とか○○とかほとんど記憶も残らないような瞬間の判断の世界では、考える余裕はありません。
 というのは半分ウソで、考えちゃう時があるのですね。
 考えるのは余裕があるからで遊びが残っている証拠、身体に遊びがあるからいけない、ハマっていないから考える、ということを師匠には言われています。
 考えちゃったら、もうその瞬間に死んでますよ。
 だからこそバチィッとハマった状態で一気呵成に終わらせないといけないのですが、極度の緊張状態とか異常な状況にあると、人はしばしば心が浮くのですね。心が浮くのは、身体が浮いているからです。
 浮かないためにハメるわけで、なんだかトートロジーですが、そのハマった感、その時の心の状態みたいのもよく記憶しておかないといけません。ここに瞬間にもっていって、心身共に遊びのない感じを一瞬でつくり、少なくとも十秒くらいは一瞬も途切れずに動く。ということをやりたいわけです(できているとは言いません)。
 だからもう今は、相手がいて動いている時でも、その要諦が守れているかしか見ていないですね。
 実際には打たれていなくても、「あ、今死んだ」って自分でわかるわけですから。めっちゃ恥ずかしいですから。
 死ななかったのは練習だからとか相手が良い人だったからとか弱かったからとか、要するに運が良かっただけで、そんなの全然関係ないんですから。
 若い頃は相手と自分の間に何もない空間があってふわふわしていつ何をやったら良いものか全然見えていなかったのですが、今調子が良ければ数秒先の未来まで空間がミチィッと詰まって全部決まった感じにはなります。そうなったら気持ちとか関係ないですから、怖いとか痛いとかないですよね。後で後悔したりはしますけど(笑)。
 まぁそれを常時出せるわけじゃないのが大問題で、出せても勝つか負けるかは別問題ですけどね。まぁ死ぬのはいいんですよ。やることやってれば。やることやらずに勝つよりやることやって死ぬ方が理想な訳で。
 極論ではありますけどね。怪我したくないなぁ。

よしこ画伯

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