Categories: 思想系書き物

正義の蕩尽

 何度も同じようなことばかり書いているけれど、「正義の蕩尽法」というのは現代的に非常にシビアな、わたしたちが向き合わないといけない問題だ。
 あまりにも同じことばかり言っているので、先に関連してるお話を貼っておく。

正義と「この世界」と理神論、そして大山のぶ代
理不尽に対する怒りと楽をしたい一心
人類の未来について心配したい欲

 皆んな、びっくりするくらい「正しいことがしたい」。
 そのこと自体は、責められるものでもない。誰だって「正しく」ありたい。問題は、この「正義欲」に多くの人が無自覚なことだ。それがある種の欲、自分を支えるために必要な営みの一つだとわからず、正義そのものが自分の外に頑然とあると感じてしまう。すると正義は身の丈を越えて、時々無制限に膨らみ暴走していく。
 わたしたちはある程度「正しく」ないと生きていけないが、無限に「正しい」必要はない。そんなに食べても太るだけだ。
 正しくないと生きていけない、というのは、社会的に抹殺される、とかいう意味ではなく、そうでなければ「人でいられない」ということだ。正気を保てない、ということだ。

 多くの人が指摘していることだけれど、昨今のSNSなどでは、例えばパクリ疑惑であるとか、いわゆるバカッター的なものとかに、直接の当事者でない人々が群がってフルボッコにする現象が見られる。いわゆる「イナゴ」的な振る舞いというのは、ネット草創期から存在はしたように思うけれど、ネットがリテラシーの低い個人にもより開かれたことから、より多くの人がより矮小な問題に一斉に襲いかかる度合いが増しているのだろう。
 これまた言い尽くされたことだけれど、こうした振る舞いも、広大な安全圏から無限に遠距離射撃できるネットというツールがなければ、ここまで加速することはなかった。近所の兄ちゃんの説教みたいなレベルであれば、むしろプラスに働いていた場合もあったのだろう。わたしたちは常に人類学的遺産の中で育まれているので、こんな大スケールの強力な武器をもっての戦いにはまだ慣れていない。かつては有利に働いていた特性が、むしろマイナスになってしまっている。

 で、こういう時によく思い出すのがエジプトの路上だ。エジプトだけでなく、アラブ世界全般に言えることだろう。
 まだこの世界を訪れる前、当時の仕事先の人がパレスチナなどを旅していて、「あの人らは良い人だけど、良い人すぎる」「客の奪い合いになる」という話を聞いた。皆んな「困ってる人」を見つけて親切にしたくてたまらなくて、不案内な旅人などを見つけると、壮絶な「おもてなし砲」が火を噴くことになる。「困ってる人」の取り合いになる。「良い人だけど、良い人すぎて疲れる」と彼は語っていた。
 実際にエジプトを訪れ、それなりな期間滞在することになり、これは本当に身にしみた。
 彼らは元々人と人の社会的距離が近く、いわゆるパーソナルスペースも狭い文化なのだけれど、とにかくもう、困ってる人を見つけて親切にしたくてたまらない。それは結構なのだけれど、親切心が暴走している。有名な話で「エジプトで道を聞くと間違った道を教えられる」というのがある。彼らは道でボーッと迷った感じにしている人がいると放っておけず、話しかけて道を教えたくなってしまう。ところが、当然ながらその人にも知っている場所と知らない場所がある。でも「知らない」とは言えない。そんなことをすれば末代までの恥。知らないことでも知ったフリをして教えてしまう。こういう被害は外国人だけでなく、エジプト人自身が日常的に味わっている。
 大体、朝、家からメトロの駅まで五分ばかり歩くのでも、だれとも会話しないで行くのは不可能だ。常に誰かが話しかけてきて、まぁ挨拶程度ではあるけれど、ずっと会話していないといけない。語学学習者にとっては素晴らしい環境なのだけれど、精神的にはかなり鍛えられる。
 ちなみに、当然ながらエジプト人にもシャイな人は沢山いるのだけれど、グイグイ来るタイプの人が前景に出すぎるので、内気な人は目に入ってこない。少し慣れると、実際には結構控えめな人も存在する、ということはわかる。もう一つどうでもいい豆知識として、彼らは考えが非常に顔に出る文化で、身振り手振りも激しい。そのため、わたしたち日本人のように「顔に出さない」系の文化の人間からすると、非常に考えを読みやすい。だから、道を教えられた時は彼らの目を見ていれば、間違ったことを教えている時は大体目が泳いでいるので、正しい道か間違った道かは割とすぐわかる。

 こういう人たちを眺めていると、人は本当に「良いこと」をしたいのだなぁ、と思い知らされる。
 当然ながら、その「良いこと」が相手にとっても本当に良いことで、良い結果をもたらすかどうかはわからない。多分、日本的な感覚からすれば、結果として良いこと、相手にとって良いことでなければ意味がない、となるだろう。アラブ人だってそういうことがわからないわけではないけれど、比率としてまず、意図において清いことをより重んじている。そもそも、結果がどうなるかは、厳密なところは誰にもわからない。それこそインシャアッラー、神様がお望みであればうまく行くでしょう、というものでしかない。本当に、未来のことはわからない。その辺の謙虚さはアラブ人の方が余程あるので、どっちもバランスは悪い。
 日本の人々も、近代化以前はかなり人懐こかったようで、幕末から明治期に日本を訪れた欧米人の記録などを見ると、まるで今のわたしたちにとってのアラブ人か何かのようだ。喋り好き、いい加減、時間を守らない、無駄に親切。
 ただ、現代日本に限って言えば、路上の親切はほとんど見られない。お年寄りに席を譲るとか、せいぜいその程度だろう。そのくらいに抑えておいた方が、結果として今のわたしたちにとっては都合が良い、うまいこと回るから、その塩梅に落ち着いているのだろう。
 その分の「正義欲」が、SNSなどに噴き出しているようにも思える。道で「正しさ」を炸裂させられないフラストレーションが、ネットで弾けている。
 ちょっと単純すぎる図式だけれど、そうした一面はあるように思う。

 では「正しいことをしたい欲」を再び路上に戻せばいいかというと、そう単純にもいかないだろう。いかないから、今のような世の中に落ち着いてきたはずだ。路上で炸裂させまくっているエジプトが夢のような社会だとは口が裂けても言えない。個人的には、もうちょっと路上寄りにしてもいいんじゃないかと思っているけれど、都会ではなかなかそうもいかないのが実情だろう。
 大体、ことの本質は路上かネットか、ということではない。この「正義欲」そのものなのだ。
 「正義欲」自体は、多分わたしたちが(社会的)進化の過程で身につけ深く染み付いたもので、あと数千年くらいは消えてなくなりはしないだろう。
 ただ、今の社会に「正義欲」をブーストするツールが溢れてしまって、それが災いを招いてしまっている。ただの喧嘩なら殴りあって済んだところが、たまたま手元に拳銃があったので撃ち殺してしまった、みたいなものだ。
 路上はまだ第三者の目があるし、まだいくらかブレーキがかかりやすい。そういう意味で、ある程度の「路上への回帰」は必要だと考えているのだけれど、それに限界があるのは前述の通りなので、もうツールを前にした振る舞いを変えるしかない。その為にはとにかく「正義欲」を自覚することだ。
 自覚したからといって、すべてうまくいくとは限らないけれど、幾分抑制にはなるかと思う。
 正義というのは、本当に厄介なものなのだ。
 正義自体、ある種のブーストするツールであって、ブワーッと大衆を動員して巨大な力を生み出す一方、変な方向に走ると誰も得しないような世界に落ち込んでしまう。
 とはいえ、正義自体を廃絶することもできない。それはある種の「欲」なのだから、解脱でもしなければ抜け出せない。
 正義自体が、ある種の必要悪なのだ。
 だから結論としては、「もうちょっと自覚しましょう」とかいう、まことに頼りないものにしかならないのだけれど、わたしたちはこの欲とそれなりに付き合っていくしかない。
 わたしは、わたしの正義が結果として「良き正義」になってくれるよう、ただ神様に祈っている。

よしこ画伯

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よしこ画伯

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