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ヤクザと人権

 映画『ヤクザと憲法』極道たりとも、法の下に平等なのか? – HONZ

子供が幼稚園に通えない、銀行口座が作れない。ヤクザであることを隠して口座をつくれば、詐欺で逮捕される。自動車保険の交渉がこじれると詐欺未遂で逮捕される。思わずこぼしたセリフが「これな、わしら人権ないんとちゃう?」

 こういう記事に対して「ヤクザに人権なんかあるかボケ」とか「日頃他人の人権をないがしろにしている人間が人権を主張するとは」みたいなコメントが見られるけれど、いやいやいやちょっと待ちましょうや、と慌ててしまう。
 どんなクズにでも最低限あるはずのもの、として人権という概念が措定されるでしょ。
 外山恒一さんが「刑務所でこそ人権が問われる」と素晴らしいことをおっしゃっていたけれど、良い人には保証するけど悪い人からは剥奪、というのなら、それは人権ではないんじゃないの。そんなものなら金や一般の社会サービスと同じ話で、人権概念というのは、何かの対価として得られるものではなく、交換を越えたものとして位置づけられるからこそ意味があるんじゃないか。
 もちろん、人権という概念そのものは手にとって見られるものではなく、フィクションと言ってしまえばその通りだ。
 でもわたしたちは、常にそういう「共有されたフィクション」をめぐって生きている。別に宗教のお話をするのではなく、お金だってある意味フィクションで、愛という概念だって身体を切り開いて見つけられるものではない。家族愛だろうが何だろうが、それは単に言葉で、ただそういう「ただの言葉」を皆んなでそれなりに大事にして守ることで、一つの秩序が作られるのだ。
 人間の社会というのはそうやって成り立っている。
 人権概念というのも、そういう社会的な共有物、尊重される「ただの言葉」であって、それ以上でも以下でもない。
 もちろん、人権概念なしの社会、というのはあり得るし、多くの時間・空間で人類はそれなしでそれなりにやってきた。そういう世の中を望んでいるなら、それはそれでアリなのかもしれない。
 ただ、少なくとも現代日本に育ったわたしたちは、嘘でも不完全でも人権概念をそれなりに大事にしましょう、という建前の中で生きてきたわけで、そういう建前をかなぐり捨てるということは、わたしたちを守ってきた世の中というものを一旦ポイしてしまうということと同じことだ。
 本当にそれで良いのか。
 人権概念がパーフェクトだとは言わないし、それも「一つの嘘」でしかないから、掲げることで潰される別の嘘がある。人権が掲げられる社会が理想社会というわけではない。
 ただそれでも、先人たちが以前の社会の問題を少しでも克服しようと、なんとか頑張ってお膳立てしてきた大切な建前ではある。
 薄っぺらい嘘でも建前を通すことで世の中というのは成り立つのだ。
 もちろん、建前だけで回るものではないけれど、本音と建前というのは二つで一つなのであって、なんでもぶっちゃければ良いというものではない。礼節だって「構造化された無関心」でしかない。でもそういう建前、約束事を一応守ることで、スムーズに回るものが沢山あるのだ。

 ヤクザはクズかもしれない。彼らが他人の人権を踏みにじっている、というのも本当かもしれない。
 でもそれを責めるのだとしたら、人権概念の超越性をもってしかないわけで、彼らに対してだけは例外的に人権を認めない、というやり方では、そもそもの建前が崩れてしまう。
 あとはもう、どっちか倒れるまでただ殴りあうだけだ。
 いや、最終的にはそういうことなのかもしれないけれど、もうちょっと建前を通して、秩序を手放さないように頑張ってみても良いんじゃないか。
 出来る限り「ガチの殴り合い」を避けるように、昔の人も工夫してきたんじゃないか。
 建前を捨てて今はちょっとスカッとするかもしれないけれど、一旦捨てた建前はそう簡単に戻らない。グダグダのどうしようもない無秩序になってから後悔してもどうにもならない。一回はじめた喧嘩というのは、簡単には終わらない。だからヤクザだってナシをつけてから喧嘩するし、戦争にすら約束事があるし、伝統社会にも「ことを収める方法」が色々と用意されているのだ。
 少なくとも、今の世の中の秩序というものを多少なりとも大事に思うなら、「悪いヤツ」とは片腕縛って戦う覚悟を持たないといけない。
 それが簡単じゃないのは認めるし、わたし個人にどれだけできるかというと、まったくもって頼りないとは思うけれど、そこは一応、頑張りどころなんじゃないかと思う。
 もちろん、例えば自分自身の家族などが「悪いヤツ」にひどい目に合わせられたりしたら、わたし自身、そんな上品に振る舞っていられる自信はない。外道に対して外道でかえすかもしれない。でもその時点で、もうわたしは自分自身がこの世で生きるために必要ななにかを捨てた、ということだ。そういう選択があるかもしれないけれど、迫られてもいないうちからポイポイ捨てることはない。いつか死ぬ日が来るのが怖くて今日自分で首を吊る、というのでは真っ当とは思えない。

 そもそも、ヤクザをこの世から一掃したところで、悪が世界から消えることはない。
 程度の差こそあれ、多少悪いヤツ、多少話の通じないヤツ、秩序からはみ出すヤツ、というのはいるのだ。
 それを一元管理で一網打尽にできれば綺麗かもしれないけれど、なんともディストピア的で、多分コストに見合わない。マイナンバー的なものが一つのデータベースで管理されている不合理のようなもので、一元管理というのは、ある一定のレベルを越えるとどうしてもとりこぼしが出て投入コストに見合わなくなるものかと思う。
 もちろん、最大権力が一定レベル以上の力を持っていることは秩序維持の上で有効だけれど、それは完全ではないので、クズはクズなりにクズ内的な秩序をもって、頭をおさえてもらっている方がいい。
 そうでないと、「無法者国家」を叩きのめした後に散り散りになった個別的テロリスト相手に終わりのないモグラたたきをするような未来が待っている。
 それくらいなら、悪の親玉に小粒の悪をまとめてもらっておいて、多少の悪事には目をつむりつつ、一線を超えないように管理する方がずっとコスパが良い筈だ。

 当然ながら、別段ヤクザの肩を持つ気はないし、身近にいたら本当にこまるのだけれど、だからいって「人権もクソもあるか」じゃ、本当にクソしか残らない。
 もうちょっとだけ、なりふりかまってもいいんじゃないの。
 ただでさえも右も左もクソクソクソだ。人生クソなんだから、これ以上クソだらけにしなくてもいい。
 人権概念なんて嘘っぱちのフィクションに決まっているけれど、そのフィクションを大事にする建前で、少なくともわたしは育ってきたし、できればこのまま生きていきたい。

よしこ画伯

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よしこ画伯

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