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「もしかしたら話が通じるかもしれない」というのが狂気の始まりなのだ

 「もしかしたら話が通じるかもしれない」というのが狂気の始まりなのだ。
 誤った考えの始まり、というのではない。トリコじかけに明け暮れる始まり、もうまったくぜんぜん違う、ニューワールドの始まり、ということだ。
 始まりと言っても、とても多くの人が気づいた時には「もしかしたら話が通じるかもしれない」と思ってしまっているので、ちゅうくらいのところでやっとハッとする。始まりを過ぎて、ちゅうくらいまで行って、やっと気づく。そもそも、大方の人は気づかない。むしろ、終わるくらいになって「あぁ、なにかが終わるのかも」と思う。
 本当はもう全然、話なんか通じないのだ。
 通じるはずがないのだ。
 「もしかしたら話が通じるかもしれない」なんて、勘違いも甚だしい。
 どう通じないって、まるっきり種類が違う。種類とかなんとか、並べて比べること自体おこがましい。
 ワカメとこんにゃくくらい違う。
 ワカメはまだ海でゆらゆらしているだろうけれど、こんにゃくなんて、元をたどればこんにゃく芋だったのかもしれないけれど、そんなものとうの昔の話で、今はなんだかすっかり直方体で、生物界の風上にもおけないヤツだ。
 例えば自分がワカメだとしたら、クラス四十人のうち二十三人くらいはこんにゃくだ。
 こんなもの、話が通じるはずがない。ワカメとこんにゃくだから。
 残りのうち、七人くらいはイソギンチャクだ。イソギンチャクといえば海の生き物。海にいて、しかも生き物だから、お、なんか少し話が通じるかも、と思うかもしれない。その辺が勘違いの始まりだ。ワカメとイソギンチャクだって全然違うのだ。
 次の五人くらいはD51だ。デゴイチよ、デゴイチ。坂道だってへっちゃらだ。あんな黒煙あげてモクモク走るようなのが、次の五人だ。これで話が通じると思う方がおかしい。
 それで次の二人は5だ。5が二人。何が5なのかわからない。もう全然わからない。
 ところがその次の三人は5mmだ。mmとかつくから、少し長さがある。長さがあると、目に見える感じがして、少し話が通じるかといえば、やっぱり通じるはずがない。
 でも一人くらい昆布がいる。昆布とワカメなら、結構話が通じるんじゃないか。光が見える。パァーッと世界が開く感じがする。こういうのも、発狂のしるしだ。でもよく考えて欲しい。昆布といっても、海にいる時のあれなのか、塩昆布なのか。それで全然違う。海でゆらゆらしているワカメと塩昆布じゃ、大分加減が違う。そう思ってみると、自分だって海でゆらゆらしているのか、増えるワカメちゃんなのか、よくわかっていない。自分のこともよく分からないのに、話なんか通じる筈がない。ちなみにこれも勘違いするところで、自分のことをよく知れば話が通じるようになるかもしれない、みたいな考えがある。変に希望を持ってしまうわけだ。ところがどっこい、海でゆらゆらしていようが増えるワカメちゃんだろうが、本当のところ話が通じる可能性なんて一ミリもない。だから全然関係ないのだ。己を知ったところで、そんなもの何の役にも立たない。
 それから次の四人がマングースだ。マングースと言えば生き物。そうは言っても、陸の生き物と海の生き物じゃ常識というものが違う。大体、生き物同士だったらうまくいく、みたいなのもどうなのか。マングースは多分ワカメなんて食べないだろうけれど、一週間くらい何も食べてなくて腹ペコ状態だったら、ワカメだって食べるかもしれない。もう絶望的に何も食べるものがなくて、こんな黒くてブヨブヨしたもの食べるなんて最悪死にたい、とか思っても、背に腹は代えられない。生き物だったのがアダになるわけだ。食べられてしまえば元も子もない。そんな時に、どんな話が通じるというのか。まったくもって、甘い考えという他にない。
 そして最後の三人が「を」だ。なにが「を」なのか。形は「を」だけれど音は「お」じゃないか。そんな過去の名残りの、書き文字にしかないような残骸ようなものが、残り三人。いるのかいないのかもよくわからない。そんなものと、何の話をするのか。格助詞ということなのか、字そのものということなのか。何か他にいろいろあって、そのなかにあってはじめて「を」みたいなものと、分かち合うものなどあるはずがない。
 クラス全体がこんな調子で、話が通じるかもしれない、なんて考える方がおかしい。学級崩壊だ。
 大体、今のを全部足してもキッチリ四十人にもならない。そういうズレみたいのがある。だけれど何がズレているのか、何が足りなくて何が余っているのか、それもよくわからない。勘定の違いみたいなものがある。そういう風に、辻褄があわないところが、話というものにはあるのだ。だから通じるとか通じないとかいうものでは、そもそもないのだ。
 話ができるから通じるかもしれない、と思ってしまうわけで、話ができない人は、そもそもそんなことを考えたりはしない。
 ではこういう話ができない人が、すっかりカオスの学級崩壊みたいなことになっているかと言えば、そんなことはない。アナグマはアナグマで、しっかりやっている。穴を掘って子供を育てて、立派なもんだ。増えるワカメちゃんだかなんだか、それもハッキリしないような連中とは大違いだ。
 だから実は、通じるとか通じないとか、そんなものはどうでもいいのだ。通じたところで役には立たないし、通じなくても穴は掘れる。
 ところが、話が通じることこそ肝要、そのためには何が要るか、とか、何が足りないか、とか、そんな頭になってしまっているところにそもそもの間違いある。間違いがあるのだけれど、これは単に「間違っている」という話ではなくて、すっかり頭がおかしい、ニューワールドになってしまっている、ということだから、そういう一つ一つのことを正すことでは元に戻せない。気付いた時には、もうちゅうくらいまで来ている。右も左もニューワールドで、話みたいなものでベラベラベラベラ明け暮れている。そのノートの切れ端が震えあっているみたいなところで、これがいけないのか、ここを工夫するのか、とか、そんな頭になっているから、どこにも逃げ場なんてない。
 話なんかすっかりやめて、黙って穴を掘ったりしていればもう少しまともになる。そう思って穴を掘る人もいるのだけれど、穴を掘っている間にも頭の中には話ばかりが湧いてきて、どうにも逃れられない。穴の中でも海の底でも山の上でも、話はどこにでもついてくる。生き地獄だ。
 「もしかしたら話が通じるかもしれない」というのが狂気の始まりで、後はずっとトンネルの中、それが最後の終わりの方になって、やっと穴から出てくる。デゴイチだ。トンネルを抜けたら雪国だ。
 遠くの方でホッキョクグマがのっそりと首をもたげている。今なら話が通じるかもしれない。いやいや、まだ早いまだ早い。
 あっという間にデゴイチはクマでもシカでも跳ね飛ばして胴体切断、お友達になんてなれない。
 それでも汽車はグラリと揺れて、雪の中を脱輪脱線、崖の底にまっしぐらだ。
 その時はじめて、穴の中からコンニチワ。森の仲間とご対面。すわとシャッポを脱いだあたりで、アナグマ親子のひょっと首を伸ばした姿が視界をかすめ、遠のく雪景色ヒマラヤスギと愉快な仲間たち、それでは皆さん、サヨォーナァーラァー。

よしこ画伯

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