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あんまり納得しない方がいい

 こんな2chまとめ記事があった。

助けてくれ、どうしても中部と東北だけが九州にならない:キニ速
「納得したい」というのは欲

 これに対し、

“洗脳ってこうやるんだな”に笑った。でもホンマにそうよ。学生の頃よく来てた新興宗教の人も「人を殺すのは悪いことやんね?」から始めてちょっとずつ理屈をつけようとしてた。

 というコメントを書いたのだけれど、すいません、正確には勧誘の人が来ていたのはうちじゃなくて友人宅。このアパートは、今時は多分もうなさそうな古き良き学生寮ライクな建物で、住民同士にかなり付き合いがあるところだったのだけれど、そこにフラフラと勧誘の人がやってきてお話していたのだった。
 で、上のように素朴なところから始めて、少しずつ(屁)理屈を伸ばして「だからウチが一番!」と主張したいらしいのだけれど、もちろん、その論理の展開の仕方は結構テキトーなので、日本中を九州にしたい話と同じでかなり胡散臭い。
 ただなんというか、こうやって屁理屈をつないで辻褄を合わせたくなる気持ちはわかる。
 これは別に人を洗脳したいとか、説得したいときに限らず、自分で自分を納得させたい時にも起こる。
 大抵の人は、辻褄が合っていることが好きだ。理不尽に頭ごなしに(他人や自分に)言われるより、納得させて欲しい、と思うのは当たり前のことだ。
 なぜ納得したいのかといえば、その方が楽だからだ。
 理不尽に対する怒りと楽をしたい一心でも書いたけれど、筋を通したいとか納得したいというのは、より抽象度の高いレベルで情報をまとめあげることで脳みそのメモリを節約したい、という欲なのだろう。バラバラの具象のまま繰り返し処理しているより、マクロみたいに一気に済ませてしまえる方が脳みそを使わないで済む。
 脳みそを使わないと楽で、楽なのは素晴らしいことなので、納得させてもらえると嬉しくなる。楽は素晴らしい。
 しかし逆に言えば、そんなものは所詮欲でしかないので、労力さえ惜しまないなら納得しようがしまいが同じことだ。実際、世の中には、納得しようがしまいが結局やることは一緒、ということが沢山ある。もちろん、納得できた方が気持ちがいいから嬉しい。でもやることは一緒なので、そのへんのスケベ心をおさえることができるなら、どっちにしたって五十歩百歩だ。
 加えて、納得してしまうということには、色々危ういところもある。
 洗脳などが良い例だけれど、かなり無理やりでも辻褄があっているように頭のなかで「筋」を作ってしまうと、その筋でもって具象の数々は代理されることになるので、元の情報の多くが切り捨てられる。そうやって楽をするために辻褄をつけるのだから、当たり前だ。でも「筋」が本当に処理として正しいのかどうかは場合によるので、正しくなかった場合は、大切な情報を無為に放棄してしまったことになる。
 だから時には、納得しないなら納得しないなりに、「どうなんかなぁ」と疑問に思いながら同じことをやってみるのも選択としてアリかと思う。すっかり納得してしまっていると(自分で自分を説得できてしまっていると)、いざ間違いだった時に引き返すのが難しい。
 別に納得できないまま試しにやってみたって悪い話じゃない。「心の底から納得できるまでやりません!」というのは、大層理性的な態度に見えるのだけれど、大概、そんな理性の方が肝心なところで足元をすくわれる。納得できないけれどちょっとやってみて、イヤなら止める、とか、筋の通らない方が安全策になることもよくある。
 あまり脳みそ節約しようと思うと、ただ欲をかいていることになるので用心した方が良いと思っている。

よしこ画伯

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よしこ画伯

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