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他人だからアリガテェ

 所詮夫婦は他人、みたいなことが言われることがあって、そういう時は暗黙的に「親子じゃないんだから」という含みがあるような気がするけれど、親子だって他人だ。
 別の個人だから、という話がしたいわけじゃない。
 それもそうだし、当たり前のことだけれど、そのお話じゃなくて、子供だって親にはじめてあった時はまだ知らん人やし、親にとってだって知らん人だろう。
 まぁ、お腹の中に結構長いこといたから、まるっきり初対面とも言えないけれど、それだってお腹の中に胎児的な人が出てきた頃にはまだ知らん人で、トツキトウカ過ごすうちに割と馴染みになるんだと思う。
 お母さんですらそんな調子だから、お父さんなんかまるっきり知らんオッサンや。
 なんでそんなことを話しているかというと、ウチらはみんな拾いっ子みたいなもの、とよく考えるから。
 子供の頃なんかに、例えばおじいさんが戦争で死んでたりしたら、自分はいなかったんやなぁ、みたいなことを考えて不思議なきもちになることがあると思うけれど、ある場所で、そういう疑問に対してお母さんが素晴らしい答えをかえしているのを見たことがある。「うちに生まれなかったら、他所に生まれてたんやろ」と。
 これはすごい考えで、ここに生まれなくてもどのみち生まれてた、ということで、たまたまここのうちに拾われて、どっかのオバハンのお腹の中に出てきちゃった、ということだ。
 個人的には、わたしそのものは神様がつくったと思っているけれど、そういう考えと通じるものだと思う。
 この考えの良いところは、所詮拾いっ子、所詮他人だと思うと、親やら何やら身の回りのものがアリガテェ存在に思えるところだ。
 いや、別に無理してアリガテェと思うこともないのだけれど、どのみち「いまここ」は「いまここ」なので、プラスに考えられた方が得だと思う。
 そうでないとしたら、例えば、わたしが生まれたのは両親がセックスしたから、みたいに(二者関係で)考えていると、生老病死すべての苦しみは生まれることから始まるのだから、親なんて別にありがたくもなんともない。育ててもらっているのだって、当たり前の義務を果たしているだけとか、その辺の道端に捨ててくるとタイホされるから、くらいにしか思えない。少なくとも、わたしはそう思う。ほんま、大きなお世話をしてくれたもんや。
 でもガード下で拾ってきた的なものだとしたら、そこで放っておいて飢え死にさせても良かったわけで、マンマとかオベベとか世話してくれてる分、これはアリガテェという気分になる。
 他人だからアリガテェのだ。「有り難い」というのは、普通はなかなかないから有り難いというのであって、当たり前なら別にアリガテェもヘッタクレもない。
 夫婦だって同じで、二者関係で考えているとアリガテェことは何もないのだけれど、こういう巡り合わせで「いまここ」にいる、というのはアリガテェものだ。他人だから有り難い。
 もちろん、生物学的には大抵の場合は親子は遺伝的につながっているし、夫婦はそうじゃない。それは事実としてそうだけれど、そこで考えていると世の中クサクサして生きにくい。だからなんやねんというか、身も蓋もないというか、大きなお世話をしてくれたお陰でクソみたいな世の中でクソみたいな人生、という気分になる。
 どのみち生まれていた、もとより他人、全部他人で、なんかの巡り合わせでここにある、と思うと、世の中も人生も相変わらずクソなのだけれど、生きるのがずっと楽しくなる。
 つながりみたいのが最初からあって、それがちゃんと理詰めでわかるものだと思うと、人生はほんまにクソやから、そんな考えは忘れた方がいいと思う。

よしこ画伯

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よしこ画伯
Tags: 思想系

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