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強いものの弱さ、弱いものの強さ

 無視される感じとベビーカーで、「自分が怖い時は相手も結構怖い」ということを書いた。一般に「強い」とされている立場の人も、結構ビビっていて大したものではない、ということだ。
 というよりは、「強い」と人というのは「弱い」人のお陰で「強い」ポジションにいるわけで、「弱い」人らが「うわ強えー、かなわねーよ」という態度を取ることで「強い」のが当たり前の自己意識を形成するものかと思う。これは意識的なものとは限らず、というより多くは意識されないまま社会的ロールとして行われていて、「強い」人はいわば「弱い」人たちにうまいこと神輿に乗せられているだけだ。
 まぁその辺は、安定した社会秩序を保つ上でミーム的に醸成されてきた知恵のようなもので、一概に良いとか悪いとかは言えないと思う。
 DVの事例などでもある種共犯的な共依存関係があるのはよく指摘されるところで、被害者の側は、まず自分が純然たる被害者であり、相手が全部悪い、と考えるところから始めないといけない、という。これはその通りなのではないかと思うのだけれど、わたしはこういうのの「加害者」の方がいつも気になる。こちらはこちらでケアして治療なりしてあげないと、また同じことを繰り返す。そしてそれは、「弱さ」みたいなものと向きあう過程なのではないかと思っている。
 話が飛ぶようだけれど、アメリカは軍事的には依然世界一で、本気を出したらアメリカ様が最強だ。でも昨今の戦争を眺めていると、アメリカは常に腰が引けている。もう、一人の死者も出したくありません、生きててもPTSDとか怖いです、と、「安全第一の戦争」をやっているように見える。一方で、彼らが「テロリスト」と呼ぶ人々は、勇猛果敢で死を恐れない。いや、本当は恐れているのかもしれないけれど、死よりも恐ろしいものが色々ある。だから彼らは「弱い」けれど「強い」。
 核兵器を保有する大国は、核兵器の拡散を恐れる。現状では圧倒的に強い筈なのに、いつもビクビクして、ちょっとのダメージでもヒステリックに反撃する。
 「強い」者は、その強さゆえに、「弱さ」を受け入れられず、見た目以上にビクビクしている。常に虚勢を張っていないといけない。

 「強い」者に「弱さを受け入れよ!それが本当の強さだ!」というのは、いかにもマンガ的で嘘くさいのだけれど、一面の真理はある。
 でもわたしがもっと気にしているのは、「弱い」者がその「強さ」を受け入れる、ということだ。これが出来ていないが故に、「強い」者をますます追い詰めてしまっていることがままあるように思う。
 ベビーカーの話でも、「強い」とされている者らに対し、実はアイツらも結構ビビッてて大したことない、と考えた方がいい、ということを書いた。それは「弱い」とされている者が「やればできる!」と思うことで、これは「強い」者が弱さを受け入れるのと同じくらい難しいことではあるけれど、同じくらい大切なことだと思う。もしかすると、もっと大変でかつ有意義かもしれない。
 というのも、現代日本的な文脈で言うと、「弱い」ことは奇妙な強さを持って、ワイルドカード的に振る舞うことがあるからだ。「弱さ」が奇妙な最強のカードになって、ますます「強い」者が追い詰められる。
 基本的に、強いということは良いことだ、とわたしは信じている。何らかの形での弱さというものが、人の不幸を作り出す。ただお金持ちであるのだって、それ自体良いことだ。強さがあるから余裕ができる。
 ただ同時に、人は弱いもので、理想的にはできていない。
 この二つの原理に、なるべく素直に忠実にやった方がいいんじゃないか、と思っている。
 「弱いものを気遣うのは当然だ!」みたいなところから一足とびに始めると、話がこじれてややこしくなる。
 弱いものがただ弱いだけなら、それはただの役立たずで、別に気遣ったりする必要はない。むしろ蹴飛ばしていいくらいだ。
 でも実際は、弱そうに見えて実は別の強さを秘めていたりするもので、翻せば、自分自身も思っているほど強くはない、ということだ。ナメてかかって蹴飛ばそうとすると、足関節とかとられて地獄を見るかもしれない。慎重に行かないとアカン。
 「自分がビビッてる時は相手も結構ビビッてる」もので、なおかつ、どんなにビビッてそうな相手を前にしても、ナメてかかるとひどい目にあうかもしれない。
 なんか、それくらいのシンプルなやり方で見た方が良いんじゃないかな、と最近思っている。

よしこ画伯

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よしこ画伯

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