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理不尽に対する怒りと楽をしたい一心

 筋が通っていないとイラッとする。
 と言うと、普通は不正義のようなことを考えると思うけれど、たとえば語学の学習をしていて、理不尽で非合理的な文法規則などに出会っても、やっぱりイラッとする。
 ラテン語やアラビア語のようなディープ屈折語の活用変化とか、まったく意味が分からない!という気分になる。
 もっと整合的でシンプルに作ってあれば、ずっと学習が簡単な筈だ。
 なぜ簡単かと言えば、より少ない規則をもって多くの事象を一括して扱うことができるからだ。チマチマコピペするよりマクロで一気にやった方が簡単だ。
 つまり、筋が通っているというのは、何かをより少ないルールで簡単に扱える、ということ、抽象度が高い、ということとも言える。言ってみれば、楽をするための工夫だ。
 翻すと、筋が通っていなくて腹が立つ、というのは、楽できないから腹が立つ、とも言える。実際、楽ができないのは非常にムカつくことだ。

 そうはいっても、実際の自然言語は筋なんて通っていない。なぜか、と言われても、そういうものなんだから仕方ない。
 言語だけじゃない。世の中の大概のことはそんなものだし、そもそも大自然なんて、こういうものなんだからどうしようもない。
 もちろん、その中にはより合理的に改めることができるものもあるけれど、それも大抵は簡単ではなく、時間がかかるし、もうどうにも合理化なんて無理、あと千年は待って、というものだってある。

 わたしたちは理不尽に直面すると怒りを覚える。というより、怒りというものは何らかの正義、あるいは真実性というものに裏打ちされて、はじめて怒りとなる。
 どんな怒りにも、「自分には正当性がある、こんな理不尽なことは許せない」という背景がある。その「正義」とか「真実」が、傍から見てまったく理不尽だったり、あるいは自分自身でも後で考えるとバカげた考えだと思ったとしても、その時その瞬間には、何かしら「筋の通った」ものが自分にあるという信念がある。
 永井均さんがどこかで書いていたけれど、まったく何の「筋」もなく突然怒鳴ったり喚いたりし始める人がいたとしたら、わたしたちはそういう人を「気が狂った」とか言うのだ。それは怒りとはまた違う何かだ。

 怒りというものを全く排除することはできないだろうし、また時には怒った方が良いこともあるのだけれど、あまり得をしない場合の方が多いかと思うし、大体怒ると疲れるしお腹が減る。
 だからなるべく怒らないようにしよう、と思った時、「筋とは楽をするためのもの」と考えると、少し気持ちが和らぐ。
 筋なんて、所詮は楽に処理するためのもの、脳のメモリを節約したい一心から出ているものだ。
 もちろん、楽をすることは素晴らしい。わたしもなるべく楽して生きていきたい。
 とはいえ、楽をするにも限界があることは明らかだ。ずっと寝たままテレビを見ていてかつ仕事で好成績、給料もあがる、とはなかなかいかない。そんなことは子供でも分かる。
 筋は通っていると楽だけれど、楽にも限度があるし、そもそも筋なんて楽したい一心から出てきたスケベ心のようなものなのだ、と考えると、怒りの背景にある正当性なんてものも、なんだか頼りない感じに見えてくる。

 大体、もし怒りの源泉が「楽をしたい一心」だとしたら、損得勘定で考えるべきだ。
 サッと怒ってパッと楽になるなら怒った方が得だけれど、いくら怒ってもサッパリ楽にならないばかりかお腹が減る、という時は怒らない方が得だ。
 そう思うと、怒りというものも最小限に抑えられるような気がする。

 やっぱり楽が一番でしょ。

よしこ画伯

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よしこ画伯
Tags: 思想系

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