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現フランス国王はハゲである

 大学一回生の時、あるゼミ、というかはっきり言えば忘れもしない冨田恭彦先生の教養向けゼミに出席していた時、「検証可能性を明示できない言明は無意味である」という分析哲学系のお話をするのに、「現フランス国王はハゲである」という、確かラッセルか誰かの例を出した。
 その時、同じ一回生の別の学生が、きょとんとして「ハゲなんですか?」とボケをかましてくれた。
 これには冨田先生も苦笑い。
 ウチも若かったので、内心「こいつアホか!」と思ったのだけれど、今思うとこの状況はなかなか味わい深い。
 念の為にクソ無粋なことを言えば、現フランス国王なんてものはいないので、それがハゲとかハゲじゃないとかそんな言明は真偽以前に意味がないッスよ、みたいな話をしたかった訳だけれど(本当はそれで話は終わらないのだけれど)、この学生は要点が掴めず、「フランスの王様ってハゲてるのかなぁ?」とポワーンとしたことを考えていた訳だ。
 でもその時その瞬間、その学生の頭のなかにはハゲなのかフサフサなのか定かならぬ現フランス国王というのがポワンポワーンと浮かんでいた訳で、その王様の方が、ラッセルの話なんかよりずっと面白い。
 わたしたちはいつでも、現フランス国王というものを想像できるし、現フランス国王について語り合うことができる。
 その語らいは「無意味」ということになるのだけれど、セクシーで文学的な語らいというのは、大体こういう領野を泳いでいる。
 ことわっておくけれど、「無意味」なものが文学的だ、というのでは全然ない。
 これは出会いのようなもので、冨田先生がせっかくイイ話をしてくれているのに、現フランス国王のハゲかハゲならざるかな薄毛状況を想像してしまう、そうした瞬間が文学的だ、ということだ。狙ってできるものではない。
 こうした分析哲学的な文脈からすれば、それこそラカンなんて言ってることのほとんどは「無意味」な気がしないでもないのだけれど、そこがイイ。人を狂わせるのはそういうものだ。

 同じ冨田先生が、同じ時期の講義で、プラトンのアトランティスに関する記述を天体に関するものとして読み解く、というお話をされていた。
 まぁ、ぶっちゃけて言ってしまえば、テクストの真理性と文脈みたいなお話をしているのだけれど、どう考えてもアトランティスと星座のエピソード自体の方が面白い。先生も狙ってその辺を教養学生向けのツカミにしていたのだろうけれど、話で面白いのは大抵余談の方だ。
 この余談も、本題があって初めて余談なので、やっぱり余談ばっかりしている訳にはいかないのだけれど、ウチも含めて少なからぬ人たちは、このどうでもいい余談の面白さに絡み取られてしまい、その中だけでグルグルといくらでも快楽を貪ってしまう。
 この関係は、ボケとツッコミのようなもので、笑いを笑いとして成り立たせるためにはやはりツッコミが要る、いた方が伝わるのだけれど、できることならボケてボケてボケ倒して生きていきたい。

 大体、大自然はそれ自体ボケているのだ。在るというのはボケなのだ。
 ツッコミというのは解釈格子のようなもので、ただそれ自体において在る、即時的ボケに対する対自的営みなのだ。
 お笑いだって、ボケに対してツッコミを入れるのであり、逆というのはない。あるのかしらん? あるならそれは面白いけど、これもまた余談だ。
 そういう意味では、本当のところ、「無意味」な言明は意味ある言明に先立っているのだ。
 現フランス国王は、それが歴史によって否定される、その寸前まで、確かに存在したのだ。
 真偽を決定し得る(とされている)言説空間が開かれる以前に、わたしたちはさえずるように喋っているし、大自然もまたさえずっている。

 ここでは何か、速度のようなものが決め手になっている。
 現フランス国王というポワーンとしたものが生まれ、それが歴史と言葉によって殺されるまで、その時間差のようなもの、現フランス国王がわたしたちの知に追いつかれるまでの、その隙間。
 現フランス国王は、現なのだから今の王様なのだけれど、永遠に過ぎ去った、過去そのものとしてしか、わたしたちの前に現れることがない。正確に言えば、現れる前に最初から過ぎ去っている。
 その彼方、時の地平線の向こうを、現フランス国王が全力で駆けている。
 フサフサの髪をなびかせてか、あるいはまた飛び去りそうになるズラをおさえながらか。

科学哲学者 柏木達彦のプラトン講義 (角川ソフィア文庫)
冨田 恭彦
角川学芸出版 2009-12-25

 ちなみに、冨田先生のアトランティスのお話はこの本にも書かれている。
 ただ、こんな余談好きのウチの好みからすると、こうしてキチンと本になってしまうと、それほど面白いお話という訳でもない。冨田先生すいません。
 冨田先生は喋っている時の方が百倍面白い人だった。

よしこ画伯

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